惑う星

「Quora(クォーラ)」という、雑学系?SNSをよく見ている。”質問・疑問” に対して その道に詳しい人、専門家、従事者などが答えてくれるというもので、大宇宙の果てから素粒子の世界、政治・軍事からゴシップ・醜聞に至るまで かなり広範囲の情報に満ちている。

只、”Facebook” と同じく完全実名制とはいえ解答者に制限はないため、その解答の正確性と問われれば “Wikipedia” レベルではある。丸ごと鵜呑みは禁物・・。 それでも あらゆる知識・雑学に触れることができるため “話半分” のフィルターをかけながらも愛用している。

そんなQuoraに先日とある質問トピックが載った。 「アポロ11号による月面着陸中継の捏造」に関するトピックである。

 

1969年7月、人類史上初のミッション成功以降、いつの頃からか この “捏造疑惑” は根強く残っていた。いわゆる「陰謀論」である。

真空であるはずの月面で星条旗がたなびいている。影の映り方がおかしい。暗い空に星が映っていない。そもそも当時のコンピューター性能では月往復・垂直離着陸の制御はできない。・・など、懐疑にまみれる人々の疑義は後を絶たず、挙げ句、あの映像を撮ったのは かのスタンリー・キューブリックだなどと言い出す始末・・。

これらの疑惑は早い時期から科学的に全て否定され、アポロ11号の月面着陸が事実であったことは実証されている。

もちろん私にしても、その着陸時に現場(月)でそれを見ていたわけではないし、納得できるように実証してみせろと言われても、その能力を持つわけではないが・・。 総合的に考えても事実であったと思えるし、あれだけの捏造を完成 そして隠滅させるには相当の人員とその口封じが必要であろうし、そもそも如何な事情があろうと、掛る費用と露見した時のリスクを考えれば取るべき選択肢ではあるまい。

確かに当時の制御技術では、かなりの冒険だったことは否めないらしいが・・。

 

こういった話が半世紀経った今でも出てくるということは、未だにその陰謀論を信じている人達が少なからずいるということである。

また悪いことに規模の大きい団体・企業から国家に至るまで、日頃 その姿を晒さない “陰謀” というのは古今東西 実際に横行しているわけで、それが陰謀論に対する “信仰” にさらに拍車をかけている。 陰謀論の双璧ともいえる「ケネディ暗殺事件」など、かなり不可解な未解決問題も多いので尚更である。

“信仰”・・人はたとえ何らかの宗教に属していなくても “自らの思考と自我” に対して頑強な “信仰” を持っている。 こういったことに事さら思い込みの激しい人たちは、あらゆる理屈を用いて糾弾に望むが、対する理屈には一切耳を傾けようとしない。 人は感情と自己保存の呪縛からは逃れられないのだ・・。

 

今回のQuoraトピックを見たとき思い出したのが『カプリコン・1』。 アポロ11号月面着陸から8年後の1977年(昭和52年)に公開されたアメリカ映画である。

人類史上初の有人火星探査ロケットに生じたトラブルに端を発し、それを隠蔽・捏造で誤魔化そうとするNASA、そして巻き込まれる宇宙飛行士の3人・・。 月から火星へと舞台を変えているが、アポロ11号陰謀論をモチーフにしていることは自明であろう。

首尾よく偽造・撮影された映像で世間の目は欺けたものの、無人のまま打ち上げ 自動帰還してきたロケットが、大気圏再突入時に想定外の事故爆散。 身の危険を感じた宇宙飛行士たちの逃亡劇が始まる・・といった、サスペンス・アクションものである。 映画の製作について本物のNASAは非協力的だったとか・・、そりゃまぁそうかw。内容的にはまずまずの出来だったように記憶している。

当時、実際のアポロ計画の方は、11号も挟んで既に1972年アポロ17号をもって終了、この間6回の有人月面探査を成功させており、一般的にアポロ計画のミッションクリアを疑う者はいなかった。

それでも こういった作品が作られる背景には、未だ11号の陰謀論に囚われる者、後年 発覚してアメリカ中を震撼させた “ウォーターゲート事件” の露見など 徐々に不確実性を増してゆく社会に、人々が不安を募らせていたことがあったのかもしれない・・。

 

人は不安の生き物である。 生きるがゆえに悩み、悩むがゆえに生に迷う。 四十にして迷わず “不惑の歳” なんていうが大ウソである。六十超えても迷いっぱなしである。

それこそ、全能を司る神様がどこかに実在でもしていれば、そして明確な道でも指し示してくれるなら、何ら悩みも苦労もないのだが・・。そういうわけにもいかない。

第一、人間の都合に合わせて人間が考えた神様なんて、80億の人間相手に神様自身が悩み出しそうでアテにならん・・w。

とどのつまり、自分が信じて歩く道は自分で探る他ない・・のだが、それが難しくて また堂々巡りな話になってしまう。

結局のところ物事どちらかに傾倒し過ぎない。どっち付かずではなく、どちらかに多少寄せた辺りで足場を固める。自らの奥深く・周囲のその向こう側に目を向ける。そして、”いい加減” を標榜する・・。 そんな辺りが妥協点ではないかと思っている・・。

昔あったCMのコピーを思い出す。
「今日も流れてゆく。しかし 流されはしない・・。」

 

 

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