犬の時代

マンション住まいであるため動物を飼っていない。
子も独立したし、飼いたいなと思うこともあるのだが、飼う限りはそれが何であろうとも大切な命、責任を持って飼うことは当然ながら社会的な配慮や気遣いも必要。旅行に出掛けるときも放っておくわけにもいかない。

同伴宿泊可の施設もないことはないのだが限られる。さりとて一時預かりのペットホテルに放り込んでOK・・というのも今ひとつ気が引ける。 そして何より亡くした時の辛さが痛い・・。オマケに年間数万頭ともいわれる “殺処分” それも売れ残りで処分されるなど話を聞くにつけ・・結果未だ飼うという選択には至っていない。

かつて “猫は嫌い” であった。今は多少なりとも改善されたし その性状ゆえの面白さにも気がついた・・が飼おうとまでは思わない。正直なところ “犬派” であろう。それもあまり小さな “愛玩犬” よりも “雑種” で “見栄えもしない” ものでもいいから普通サイズ(中型犬)以上がいい・・。

 

“犬派” “猫派” どちらが多いのか? で検索すると、サイトによって結果が異なる。どちらの方が実態を現しているかは分からないが、ここ30年程で “猫” に対する社会的認知・・というか愛玩的嗜好が高まってきたのは確かではなかろうか? それは共に生きる家族の一員に対する想いというより “カワイイ” とか “モフモフ” とか嗜好的感覚のほうが勝っているような気さえする。 まぁ人様の感覚にどうこういう筋合いでもないが・・。

ともあれ 猫そのものが犬と異なり、”従属” とは縁のない生き物である。独立性・自己意識が高いといえばそうだし、社会性よりも個の存在の肯定である。 何者かにぶら下がってヘイコラ生きるなんざみっともない。我ありて我生きる、孤高でもあり独尊でもあり。そこが良いと考える人も少なくない。

死ぬまで主人の帰りを待ってるなどバカ犬のすることさね・・と言いたげでもある。

只、考えようによっては、極端な全体主義であった古き社会を打ち捨てて、個人主義へのベクトルしか持たない現代社会の写し鏡を見ているようにも思える。 かつて押井守がこれを物語のモチーフに落とし込んだ作品を撮ったことがある。「道端で飯を食う時代はもう終わったんですよ・・」。 台詞は良くも悪くも互いの依存度を軸としていた 薄汚れてウェットな時代から、クリーンでドライな時代への変遷と虚しさを描いていた。

野良犬が彷徨くような社会は 捨てるべき過去でしかないのであろう・・。

 

1978年(昭和53年)年も押し詰まったある日、一人のスターがこの世を去った。
昭和を代表するクールガイであり、外見・立ち居振る舞いそしてそのイメージのハンサムさに茶の間の人気も高かった・・にも関わらず・・自ら43歳の命に峻烈なピリオドを打つ。

田宮二郎、本年7月の記事でも触れた「白い巨塔」における財前五郎の演技、そして人気番組であった「クイズ・タイムショック」での司会者として あまりにも著名な人であり、当時としては まだまだ上り調子と見られていた人の突然の死だけに、世間の驚きは相当なものでもあったように思われる。

彼の死の要因については未だ明確ではないが、多額の負債を抱えていたこと、かつてからの神経症に晒され悩んでいたことなどが挙げられている。 ・・が、それにつながった一因と思われるものに、起死回生を狙って出資し取り組んだ映画の不発と負債がある。 日英合作作品でもあった映画の題名は、その名も『イエロー・ドッグ / YELLOW DOG』 `73年に制作されながら亡くなる前年`77年にようやく公開されたアクション映画だった。

作品の内容そのものは、田宮二郎扮する敏腕エージェント(諜報部員)が国際的なテロ組織相手に立ち回るという、当時としては定番なアクション活劇。 脚本担当が「羅生門」「日本のいちばん長い日」「砂の器」など数々の巨作を残した “橋本忍” を起用するなど意欲的なものであったが、後にその橋本脚本が大半書き直されるなど当初から色々と杞憂を抱えた進行であったようだ。

* あらすじなどはコチラから・・「映画.com」。

 

ともあれ、映画の評価については “無きに等しい” もしくは “芳しくない” といった感じ・・。 海外評価にあっても同じく、主人公 “キムラ” が拳法?を扱うことから “カンフー映画” の一端とされている向きさえある。(ようやく発売されたサントラEP盤では「大山倍達・地上最強のカラテ」とのカップリングだった。) 映画のあらすじ、一部 “色々と頑張っている・・” という評価から見て、(憶測だが)内容を詰め込みすぎてストーリーの抑揚を失いドラマの出色を欠いてしまった典型だったのかもしれない・・。

それとも、当初 テレビでも取り上げられていたはずなのに、公開以降全くといっていいほど話題に上らなかったことに、袂を分かった某映画会社社長の影響さえ勘ぐってしまうほど、その存在の薄い作品であったのである。 ・・それは田宮の想いとプライドに反比例するかのごとく・・、彼にとって この映画の失敗は負債にも増して、スターとしての自信と先行きに暗い影を落としたのではなかろうか・・。

 

田宮二郎、彼は紛うことなく “犬” であったように思う。 “主人に忠実で” “純粋で” “他の道を選ぶことさえできない” 雄々しく悲しい定めを背負っていたのではないか・・? 彼の遺作となった作品が『イエロー・ドッグ』とは言い得て虚しき一致と思えてならない。

彼の主人とは “彼自身” であろう。”スターとして気高く優雅に振る舞う自分” “理想の夫として父親としての自分” “成功者として成り上がる自分” 。傍から見れば自己栄達の権化のように見えるかもしれないが、本質的に真面目な性格も手伝って “その道しかありえない” と思い込むタイプであったのだろう。

言を換えれば 昭和時代はこういう傾向の人が多かったようにも思う。
功成り名遂げた人々の多くは、こうした一途な思考に突き動かされていることが多い。そこには “社会” であれ “家族・親族” であれ、時に “自分自身” であれ 必ず “自らを支配する主人” を抱えている。自らの思考のみで動いているように見えて、”自らの主人に対する信条で” 動いていたのだ・・。

 

今、町に野良犬の姿を見ることはない。国道で無残に死にゆく様を見ることも稀となった。
良いことなのだろう・・。

しかし そこに、失って二度と戻らない何かがあるように思えてならないのは私だけなのだろうか・・。

時代は猫の時代を推移している。次は何の時代がやって来るのだろう?

最後に・・重たくなってしまった今回のトピックに反して、こんな演技もできたという、田宮二郎の一面をもって締めとしたい。

 

 

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