E・G・N・美

* 注:本日の記事内容はあまり女性向けではありません。

社会人になり立ての頃だったか・・、竹久夢二の画集を買ったことがある。 竹久夢二、大正期を代表するロマン派的画家であり、一方、日本における近代グラフィックデザインの草分け、現代のイラストや漫画的描画の祖とさえいえる。

主に挿絵画家・美人画家として花開いた人だが、彼の作品はエポックメイキングなものとして この時代の人々に驚きと大きな関心をもって迎えられ、後に伝えられる名声を得るまでに至ったが・・、同時に当時の保守層はじめ体制の一部からは、軟弱かつ扇状的であるとして訝しがられたともいう。

彼が絵に描く女性は、それまでの絵画の筆致に被せられていた形式的なベールを剥ぎ取り、さりとて浮世絵・春画のごとき時に露骨な情慾をも否定した中から、却って彷彿となるリアリティとロマンチシズムによって殊更に人々を魅了したのだ・・。

そこには女性という存在に対する、淡いながらも飽くなき思慕の情熱が息づいている・・。

 

出来損ないの評論家のようなことを言っていても始まらないw。その買った画集である。

画集本そのものの内容は、ほぼ期待したとおりのものだったので それで良いのだが、その中に挟まれていた広告・出版案内のチラシが目についた。「当出版社からは他にこのような画集も・・!」 というやつだ。

で、その案内画集というのが “男女の情交(要するにアレ)” のイラストばかり掲載しているというもの・・。近代画家によるもので(いわゆる)イヤらしいというよりは、芸術的な観点からの絵ばかりなのであろうが・・、ま、何せ行為そのものの絵ばかりである。

とはいえ、当時の自分はまだ 芸術的な目で行為を俯瞰できるほど達観もしておらず、手の届く範囲でのリアルな女性の方に興味を抱く年頃、その本を注文することもなかったのだが・・、その本の案内文だけが妙に記憶に残っている・・。

内容は異なるが、こんな方向性の画集だった。

「つまるところセ●クスとは、汚らわしいものでもなければ美しいものでもない」

 

まぁ・・そのとおりなのでしょうが、・・マァね・・(^_^;)

(あくまで個人的にだが)男性的な感覚からすると行為に際して、特別な事情でもない限り(不妊関連とか)、全くもって “真っ白” な精神状態で事に臨むのは中々にムツカシイw。多かれ少なかれ “猥雑” なイメージを包含してはじめて実行可能な事柄である。

犬や猫、他の動物の思考は知るべくもないが、高度な知能を得た人間ならばこそ、そこに何らかの意味合いを関連付けて物事を複雑化する。公共的見知からすれば “あからさまにすべきでない” 思考でも、そこには人間本来の理由と意思が宿っているのである。

帰するところ、詩情を求めて買った竹久夢二も 件の行為画集も、少々離れて “昭和のエロ本” も近年の “薄い本” も、そこに息づく本質的な人の情慾と恣意に関しては相通じるところなのではなかろうか。

 

太古の時代から今にまで続く変わることなき人の奥底の本能。
それが作品としての表現に如実に現れてきたのが、近代文化に習熟しつつあった大正時代頃からであろう。夢二もこういった世風を背景に萌芽を果した。

大正末期から昭和初期の流動期、意識の底から沸き立つように勃興してきたのが「エロ・グロ・ナンセンス」である。時を数えるほどその内容と表現は先鋭化し、同時に低俗化もし、事ある毎に官憲の取り締まり対象ともなった。

戦時という極度に異質な時代を挟んで、戦後 表現や出版の自由が拡張されてからは、カストリ雑誌を筆頭になおさら大衆迎合の低俗表現が主体となっていき、後にメディアの主流が映像となってからは成人映画などにも継流したが、40年代頃から始まった風紀再構築の流れに従って一定、世の暗部に棲み分けるところとなる。

淫猥で低俗なものは大人専用で夜の帳の中に、そうでないものは昼の陽光のもとに・・、といきたいところだが、人間の思考や文化がそう簡単に割り切れ区別化できるものでもない。 露骨ではなくともその暗澹たる成分を湛えながら芸術的な表現は、光と闇の狭間に生き続けるのだ。

 

それは ともすれば青少年が目にする機会のある書籍にも端々に見られた。 その代表的な例が “石原豪人” による本の表紙絵・挿絵であろう。

元の経歴が映画看板の絵師であったことも奏効して、与えられる題材、求められる効果を構築してゆく技・画風は他の追随を許さなかった。 過剰とさえ思えるダイナミックな描写は非日常的なドラマにも合うため、少年向けの 短編SF小説やオカルト記事に重用された。

嵐の海から不気味に襲い来る魔物や幽霊、未曾有の災害の中で成す術もなく蹂躙される人々、闇夜の世界から突如現れ人間をむさぼり喰う化け物、そして激震の中に滅びゆく文明・・。

非日常であればこそ、人の慟哭とともに驚愕のドラマと神秘の惨劇を存分に描き切る彼の絵は、当時の親世代の目からすれば あまり容認しづらい・・下手をすれば有害図書・図面とされる一歩手前レベルのものだったのかもしれない・・。

 

そして 今一人、 “杉本一文”。角川文庫 横溝正史シリーズの表紙絵といえばこの人である。70年代後半から80年代にかけてブームとなった折には、彼の描く陰妖な作品世界に惹き込まれた人も多かろう。

石原豪人の “動なる叫び” に対して 杉本一文は “静なる呻き” といった感じだろうか?

豪人が今有る激動をストレートに描くのに対し、一文は それに至る人間の歴史と歪んだ情動に小さな光を当てているようにも見える。そこに描かれるのは、誰もが正視したくない 己がおぞましきエゴの成れの果てなのだ・・。

 

この両者に通底するのが “人間の存在理由と崩壊”、そして人間そのものの奥底に流れる「エロ・グロ・ナンセンス」であろう。

「エロ・グロ・ナンセンス」といえば通常一般的な風紀からは忌避感この上ないものだが、その “元” となるものは 敢えて言うなら(おそらくは)いかなる人の心の深層意識に眠る精神の一塊でもある。

黒きコールタールの如き情欲のように感じて目を逸らそうとも、人はその情動を正のエネルギーに変えて生きている。 破滅や惨劇に至るのは、その情動が歪な形で表出した時であろう。

人の内なるものであり その日々を翻弄しながらも、同時に生きる力の源泉ともなっている隆々たる流れ・・。 石原豪人 と 杉本一文。 彼らはこの不可解で止めどなき情動を、最も巧みにかつ精力的に描き上げた画家の両雄だと思うのだ・・。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA