突き抜けるようなスタイル、リトラクタブルヘッドライト、そしてマニア好みのエンジン、若き日の私なら、否、スポーツカー好きなら その心を掴んで離さないキーワードで固められ・・、にも関わらず初代・後継モデル共々伸び切れなかった車があった。
想いを乗せて冠せられた その名にさえ揺るぎを生じるかのような当時の状況は、当の開発陣を戸惑わせたのではなかろうか・・。
その車の名は『アルシオーネ』、 発売した “スバル(株式会社SUBARU)” が “星団(関連性をもつ恒星の集まり)” の名であることは よく知られた話しだが、アルシオーネはそのスバル(プレアデス星団)の中でも最も明るく輝く主星級 “アルキオネ(Alcyone)” から名付けられた。
いわば、”スバル” のステータスシンボルであったわけだ。
だが、その販売は決して順調とは言い難かった。
その理由は・・、大別して二つと言えようか。

一つは昭和60年(1985年)発売の直後、ニューヨークで行われた “プラザ合意” の余波で円高基調となり、期待していた北米向け輸出に打撃を受けたこと。さらに、円高状況に関わらず国内景気が間もなく反転、金融緩和に端を発した土地高騰 いわゆるバブル景気に移行したことで、急激に変わってゆく社会的ニーズに対応しきれなかったこと。
もう一つは そのスタイル並びにコンセプトが、当時として既に “ビミョーな” 立ち位置と認識されたきらいがあったことではなかろうか・・。
80年代初頭からカースタイリングのトレンドであった直線基調は既に終焉を迎えつつあり、曲線・曲面と直線を融合した “こなれた” スタイルへと移っていった。 アルシオーネが謳うところの「アバンギャルド」は挑戦的な造形でありながらも、世間の目にはやや周回遅れのアバンギャルドと映ってしまったのかもしれない。
そして件のバブル景気到来である。国ぐるみで泡沫の夢に沸いた時代、人々は足下の脆さに気付くこともなく高級化の虜となった。
アルシオーネ登場時のコンセプト “求めやすくマニアな車” など、もはや用のないもの・・。 スポーツよりはラグジュアリー、同じ内容ならより高価格のもの、出来れば国産より舶来高級ブランドのものといった 熱に浮かされているごとき時代だったのだ。
長くスバルの中軸を支えながらも、国内では一部の支持に甘んじていた「スバル レオーネ」の異端なバリエーション、そういった解釈で見られていた可能性も低くない・・。
当初のパッケージは1.8Lの4気筒ボクサーエンジン、FF及び4WDの構成、外観に合わせるようにデザインされたインテリアもまた “アヴァンギャルド” なもので直線基調なコンソール、異型ステアリング、集中型スイッチパネル、そして当時のテレビゲームを彷彿とさせるような液晶メーター「エレクトロニック・インストルメントパネル(オプション)」など、気鋭な路線を形作っていた。
スバルお家芸ともいえる4輪駆動にあっては、前後駆動力配分を自動コントロールする「ACT-4」や、車速感応式パワーステアリングの導入など、外見に現れない内面の進化も図られていた。
しかし、高級化の要素が求められてからは、2.7L 6気筒ボクサー “ER27” を開発・投入するものの、既にタイミングを逸した感を拭えなかった。
因みに “ER27” は、この数年後にマツダからリリースされた「ユーノス コスモ」搭載の “20B-REW”(3ローター・2L)エンジンとともにエンジニアの夢と技術の粋を集めたパワートレインでもあった。今となっては実現、再現さえ難しい夢のエンジンといえよう。
スープアップを果たすも販売数は伸び悩み、平成時代にDOHCヘッド6気筒3.3L “EG33” を積んだ後継「スバル SVX」にバトンタッチをし、6年の販売期間の終わりを告げた。
されど その「SVX」といえば、一定のスペシャリティーカーファンに好評をもって迎えられたものの、程なく今度はバブル崩壊の波に晒され5年の期間をもって幕を閉じることとなった。 先代・後代 兄弟揃って経済動向の波に翻弄された悲運な車ともいえる。

『スバル アルシオーネ』も、もう2〜3年早く登場していれば、その評価も販売数もかなり違ったものになっていたのかもしれない。 同じスペシャリティーカーでありながら、大きな反響と売り上げを記録した「トヨタ ソアラ」の発売が 昭和55年(1980年)である。
何事も勝者となるには “発想の斬新さ” “行動の速さ” そして “柔軟な思考” なのだろう。そういったところ やはりトヨタは巧みである。 まぁ、それも膨大な開発リソースゆえなのだが・・。