君は微笑みながら立ち上がった

再来年、2025年には “大阪万博” が開かれるそうである。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」・・。まぁこういうイベントならば妥当なキャッチコピーといったところか。 ・・あの公式キャラクターからは、どうしても “いのち蠢く(うごめく)” という感じしか思い浮かばないが・・。

因みに1970年の大阪万博のテーマは? と調べれば「人類の進歩と調和」だそうだ。そういやそんなこと言ってた気がするな。 前年の “アポロ11号 月面着陸” と合わせて、当時は未来に希望多き時代であった(色々と無知 “未経験” であったとも言えるが・・)。

万博を開く国側も、訪れる国民側も、まだまだ明日の夢に溢れていたのだろう。

 

1970年 大阪万博に訪れた経緯は以前の記事のとおり。。その後、1975年 “沖縄海洋博”、1985年 “つくば万博”、2005年 “愛知万博” と色々続いたが、どれも訪れること叶わず、行くことが出来たのは1990年の “国際花と緑の博覧会・大阪花博” だけだった。

大阪花博には「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」とかいう、やたら長ったらしい謳い文句が有ったようだが・・、題目はともかく “花の博覧会” であり “デートには丁度良いか・・” な感覚でしかなかった。

しかし まぁ経済効果だか何だか こうして見ると万博だらけだね・・。本当にみな元引いとるのかしらん・・。 そういや地元でも “リゾート博” とかやってたな・・。今も残存施設の運営は続いているようだが・・。

 

博覧会と並んで大きな国際イベントといえば、やはりオリンピックなのだろうが、こちらは一度も訪れたことがない。

1964年の東京オリンピックは幼すぎて記憶にすら残ってないし、先般の順延大会はコロナ騒ぎで それどころではなかった。 まぁ行けたとしても、そもそも人混み嫌いな上に、スポーツ苦手な私が行くこともなかったろうが・・。

そしてもう一つ、冬季オリンピック・・。
言うまでもなく こちらは雪や氷、雪山などに関わる競技で構成され競われる形となっている。 当然ながら寒さが加わるので尚の事、わざわざ見に行くことはなかろう・・(^_^;)

出場選手の技能も年々 上がり、以前では考えられなかった記録が毎回更新されている。・・一説には通常期オリンピック含め、使用する道具やウェアの性能のお陰ともいわれているがどうなんだか・・。

私のような朴念仁から見れば(フィギュアスケートなどで)、何故そこまでギリギリの技量で三回転 “半” 回らなければならんのかよく分からない・・。 三回転で安定して もっと全体を美しく芸術的に構成しないものか、と思ったりするのだが・・、そういうもんじゃないんでしょうな・・スミマセン m(_ _)m。

 

ともあれ 彼ら彼女らは、その人生の大半を賭けて それぞれ決めた競技の道を歩んでいる。天性の素質と尋常ならざる努力を積み重ねながら、只々頂点を目指して歩を進め・・到達したのが晴れの大会であり、その最高峰がオリンピックである。

 

言い換えれば、人生の頂点の舞台であり全ての総決算の瞬間でもある。 そこにサポーター、出場国やスポンサー?の重みが掛かる中、”失敗が許されぬ” 壮烈なストレスを御さねばならない瀬戸際でもある。

そりゃまぁオリンピズムだの美しさ云々はさておき、千分の一秒でも十分の一回転でも他人より抜きん出て、兎にも角にもメダル、メダルということになりますわな・・。

 

そんな 超苛烈な晴れの舞台、真白なスケートリンクの真ん中で見事に “尻餅” を付いてしまった人がいた。その時 私はリアルタイムでその放送を見ていた。 普通に考えれば天上における地獄のようなハプニングである。

競技として見るなら “絶望的” な状況の中、しかし彼女は、屈託のない笑みで立ち上がり、そのまま最後までプログラムを舞いきったのだ。

彼女の名は『ジャネット・リン』 当時 18歳、1972年(昭和47年)札幌オリンピックにおける、フィギュアスケート女子シングルでの出来事であった。

実際問題、フィギュアスケートにおける転倒は、一般に思うほどの減点対象ではないようだ。 只、開始から終演までひとつのまとまりを旨とするフィギュアでの転倒は、著しく流れを損なうミスではあるし、選手のモチベーションに与える影響は計り知れないものがある。

 

しかし、彼女は微笑んでいた。 “屈託ない” と書いたが “あまりにも屈託ない”。 失敗を誤魔化す笑みでもなく、無理に笑って進もうという悲痛な笑顔でもない。敢えて言うなら(アララ・・!)くらいの感じである。

その時の彼女の内心が如何なるものだったか知る由もないが、全編 舞い上げたその姿と笑顔は、そこで(頂点の舞台)で舞うこと自体が無上の喜びであるかのように人々の胸を打った。 それは日本中はもとより世界中の評価でもあったという・・。

結果、決して小さくないミスを残しながらも総合で3位を獲得。銅メダルに輝いた・・。

そして 大会後、彼女の人気は絶大なものとなり、日米各種のメディアによる引く手数多となった。

しかし、彼女は元々の性分なのか、名声に溺れることなく健気にスケートを続け、オリンピックの翌年まで5年連続の全米1位を含む輝かしい戦績と、大事な家族を築き上げながら満ち足りた人生を歩んだようだ・・。

 

その日から50年の後、彼女が日本に寄せたメッセージの中で、”前日のプログラムで良い成績を得られなかったため、もうメダルを取ることは叶わないだろう・・。ならばメダルのためではなく見てくれる全ての人々のために滑ろうと思った” と述懐している。 50年を記念してジャネット・リンから(札幌市)

やはり、あの彼女の笑顔も、頂点を競うアスリートであり、それ故の苦悩を超えたところにあったようだ。 しかし、その超えた所にまたハプニングがあり、それがまた思わぬハートフルな展開を招くことになるとは・・。

 

当の前日、彼女の成績が奮わなかったのは “コンパルソリー” という、 “決められた基準を正確にこなす” 規定採点種目であり、現在は種目自体が失われている。

『ジャネット・リン』 “銀盤の妖精” といわれ愛された 彼女を彼女足らしめたのは、アスリートとして超えた境地に生まれた覚悟と・・、そして 彼女が本来持っていた、滑り舞うことへの喜びに他ならない・・そう思うのだ。

 

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