縁日のF104J

車で走っていると 道路脇のグラウンドに人だかりができているのを見掛けた。フェンスの内側には様々な屋台が並び、子供や その親、若いカップルたちが並んで、ワイワイガヤガヤ賑わっている。

“子ども祭り” だとか何だとか自治体開催のイベントだろう。
そういえば何年か前、バイクで田舎道を流していたとき、これもまた道路脇の・・ほんの小さな猫の額ほどの空き地で、ダンボール箱に一杯の菓子を、集まった子供たちに振る舞っていたのを思い出す。小規模ながらこれも当地自治体によるものだと思う。

こうした光景を目にするとホッとした気分になる。
同時に “地方” そして “国” のゆく先を考えると不安にもなる。

多くの “地方” では人口減少に歯止めがかからない。若い世代は成人後 都会に出てしまうケースが後を絶たないし、地元に残った者も含めて全体的に結婚率も出産率も低下の一途。 ”婚姻率” という項目でみると昭和22年をピークに、”婚姻件数” でみると昭和47年をピークに、現在はそれらの約半分であるそうだ。

まぁ、急激な人口・社会資本の喪失をみた終戦直後や、高度成長の頂点であったような時期と、現在の状況を比べてみても仕方のないことなのだが・・。(国土に比して総人口が増え過ぎたというのもあるだろうし・・) ともあれ、適齢期の男女が添わない、新しい生命の芽生えが下向いてゆくというのは、何とも心許ない気分ではある。

多少 耳うるさくても 煩わしくてもw、甲高い子供たちの声が響き渡る町の方が、安らぎと未来を感じられる社会だと思うのだが・・。

 

愚痴ってばかりでも仕方がないので本題・・。 私たちの世代が生まれ育った頃は、上記の通り婚姻数も出産率も非常に高い時代だったので、当然 子供の数も多かった。

畢竟、子供相手の商売も成り立ったし、そのためのテレビ番組やCMも幅を利かせていた。ゴールデンタイムと呼ばれる夕刻 6時30分〜8時00分辺りに、アニメや変身ドラマがひしめいていたのも当然、教育関連会社が盛況だったのも頷けようというもの。

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マスプロなものだけでなく、小規模 個人経営の塾や駄菓子屋も賑わっていたし、子供を中心とした(ネタにともいうがw)経済が成り立ち、上手く回っていたのであろう。

子供が多ければ、それだけ子供相手の企画やイベントも多くなる。非営利である町内会などの催し物も随時に開かれ、上でも書いたような広場を使ったもの、獅子舞などを絡めて町内を練り歩くような祭り的なものなど、地域社会とそこに育つ子供とが有機的に噛み合っていた時代とも思える。

 

寺や神社で開かれる “縁日” は、元々 神仏と縁を結び深めるために置かれた参拝日であり、対象が子供だったわけではないが、江戸時代の頃からの境内で開かれる出店がシステム化され、当時には数少ない子供の享楽の場ともなっていった。

寺院の祭日でもあることから伝統としても受け継がれ、それは今に至るまで続いているのだが、現在、縁日を楽しみにする子供は少なく、中高年を主に連れられて来た子か孫がせいぜいといった感じ・・。

・・が、私が子供の頃、まだ縁日は多少なりとも心待ちにしていたイベントのひとつであった。隔月の15日だったか? 月中日の日曜日だったか? 地元の宮で開かれる縁日が楽しみだったのだ・・。

 

当時、坂下町という町に住んでいた。(Wikipediaで見ると昭和59年には上位自治体に吸収されて消散していた orz) その名のとおり周辺地域の中心部が小高い丘になっていて、その坂を下った辺り町という意味である。(因みに上位自治体は “春岡” なので、あの小高い丘が春岡だったのかな・・?)

家から歩いて10分位の丘の頂に「丸山神社」という宮があった。
正式名は「丸山神明社」、室町終期の創建、神明の名から天照大御神が御祭神だが、元々は地元の農耕神が祭神であったという。摂社にしてはしっかりした稲荷社があるので、元神は稲荷神(ウカノミタマ)だったのかもしれない。

限られた社地とはいえ、町中にも関わらず木々生い茂る禁足地を抱え(子供ン時は入ったけどねw)境内の一部は小さな公園となっている。5〜6歳位まではオフクロに連れられて よく遊びに行ったものだ。

ストリートビューで見た現在の丸山神明社

そこで開かれる縁日が好きだった。
決して広いとは言えない境内だったが、色々な屋台が居並び 綿飴だの焼きトウモロコシだの、そして、スズメの串だの何ともいえぬ良い匂いが漂ってくる。 実際食べると大したことない味でも(海の家のカレーと同じで)こうした場所では、雰囲気に感化されて一際美味しく思えるものだ。

しかし、縁日における 私のお気に入りは「F-104J」であった。
「F-104J」? 軍事マニアか何かでなければ分かりにくいかもしれない。当時の航空自衛隊に就役していた第二次主力戦闘機である。

機体がスリム過ぎなところに主翼が小さめで、正直カッコイイのか悪いのか微妙なところだが、上から見た姿はそれなりに良いと思っていた。色も相まって戦闘機というよりロケットに翼が付いた感じ・・。

ンで、何でそんな物騒なものが縁日に・・というと、要するに、「F-104J」型の入れ物に入った “ハッカ菓子” なのである。 4〜5cm位、ビニール製の機体型チューブに粒状のハッカが入っていて、それを機首の先に開いた穴からチューチュー吸うと、口の中にハッカ特有の清涼感が広がる。

元々 ハッカはさして好きではないのだが、この「F-104J ハッカ」だけは独特な甘味も含んでいて、時間も持つしお気に入りだったのだ。(まぁ 当時のことだから、正味 何を食わされていたか分かったもんじゃないがw)

 

外で遊ぶ子供が減って、良質の菓子と高度なゲーム機が普及し、今はそれさえ過ぎ去ってスマホをいじる毎日。縁日と子供の距離は遠くなってしまった。 そもそも地元の小規模な寺院で開かれる縁日自体、激減したと言えるだろう。

かなり著名な縁日でない限り出店 “屋台” の数も限られ、年を追うごとに減少傾向を辿っていたところに、今次の “コロナ” によって開催出来ず、商売替えをしていった業者も多いという。

こんな感じだったように思う

時は留まることなく、あらゆることは移り変わってゆく。
いつか大半の縁日も過去のものとなってしまうのかもしれない。
しかし、あの日のF-104J チューチューの甘苦い味わいだけは、私の記憶の中から失われることはないのだ。

 

 

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