昨年の今頃「0.1K」という我が家のテレビをネタにした記事を書いた。
相変わらず、さっぱりテレビ番組を見ないこともあって、テレビそのものは 記事にあるブラウン管式テレビが今も絶賛稼働中である。いつまで この状態が続くのやら・・w。
ブラウン管式の解像度など分からないので「0.1K」と捻ってみたが、世の中の方はどんどん高解像度化・高精細化の一途である。 最近のデジタルカメラの画像センサーなど、さすがにブレーキが掛かってきたようだが、それでも2000万画素クラスがスタンダード、ちょい高級品になると4500万画素スペック・・。看板屋とか出来そう・・。
まぁ、センサーの解像度に限らず、音楽データのハイレゾ化であれ、パソコンの能力であれ、世は何事も 進化、進化のベクトルだから どうこう言うべきことでもないのだが、そこには 多かれ少なかれ商業的なファクターが含まれているのが何とも・・。
話を戻して・・、高解像度化は 当然ながら、民生用の機器のみでなく業務用の機器・技術仕様にも大きく関わっている。
本来 “アナログ” というものは、それこそ無限ともいえる解像度を有しているはずだが、それをアナログ方式で記録・再現するには限界があるため、デジタル方式が用いられ、そのフォーマットが進化し続けることで高解像度化を果たしてきた。
現代の民生用デジタルカメラがそうであるように、テレビや映画を撮るためのデジタル・ビデオシステムも1980年代後半辺りから次々と取り入れられ、時代を追うごとに高機能化・高解像度化を続けながら、今や撮影・編集・再生の根幹を成すところとなっている。 最早、撮り直しや編集ミスのリスクを気にしながらフィルムを使用する者は少数である。
単に解像度云々の話だけでなく、デジタル化はその編集の合理化・多機能化に大きく寄与するため、現在の映画作品の6割方を占めるとさえいわれるCG処理やVFX技術も、このデジタル化が土台にあって成し遂げられるものなのだろう。
お陰で現在 私達は、極めて鮮明で、大きな画面で見ても滲みのない美しい映像。現実には目にすることの出来ない斬新でアクロバティック、そして実物に遜色ないリアルで驚異の映像を楽しむことが可能なのだ・・。
・・だが、・・まぁ、言ってみればそこまで・・でもある。
1億ドル を投入して製作された 1991年(平成3年)公開『ターミネーター2』を映画館で見た時は度肝を抜かれたし、その後の新作VFX映画の数々にも目を見張ったが、そのうち飽きてしまった。 CG を使えば何でも出来る・・どんな映像でも作れる。その事実に逆に映画そのものに対する興味が薄れてきてしまった。
このブログでも何度か触れている、近年のゴジラ映画やウルトラマン映画、仮面ライダー映画など、およそCG技術の賜物・・というか デジタルヒーロー、CGの塊みたいな映画ばかりだが、最早そんなことはどうでもいい・・、CGに依存していることを無視して、作品の内容や出来に目を向けるしかない・・。 結局のところ映画そのものの出来に比すれば、映像技術のスペックなど二の次になってしまうのではなかろうか・・。
例によって御託な前置きばかりが長くなってしまったが・・。
昭和時代の映画を今見ると、それはもう粒子も粗く全体的にボソボソで見るに堪えない・・のかというと別にそういうわけでもない。普通に鑑賞できる。 高解像度化による恩恵の筆頭である 大画面への投影にしても、そりゃまぁ、滲みなどの差はあるものの、古い映画→VHSビデオデータ→プロジェクター投影でも一般的な鑑賞には然程 不都合ない。
(ここからは どうしても個人的な感覚過多だが・・)それどころか 3DCGを駆使したような作品でなければ、その解像度の低さ・粗さからくる滲みやボケが手伝って、画面全体が緩やかな抑揚に包まれ まこと良い塩梅、落ち着いた雰囲気に感じられるのだ・・。
そんな些か緩慢な画面を最も美しく現していたのがヨーロッパ映画・・。
映画の本場が まだハリウッドに移っていない頃の映画ではなかろうか・・。 当ブログでも何度か触れた “アラン・ドロン” や “ジャン・ギャバン”、”マルチェロ・マストロヤンニ”、”ソフィア・ローレン”、”ミレーユ・ダルク”、”ナタリー・ドロン” らが活躍した時代の映画たちである。
その大半は現代のハリウッド映画で描かれるような、派手な演出も 目を見張る画面描写も持ち合わせず、多くは ごく普通、市井に暮らす人々や 悪党・娼婦など日の当たらない場所で生きる小者を、只 そのままに、滋味深く、そしてドラマティックに描いている・・。
現代の映画のストーリーは設定が複雑ながらも、大筋でその骨子は単純明快。反して古きヨーロッパ映画のストーリーは単純でありながら、本質を “人” そのものに求めるが故、極めて浮動的であり複雑・不明瞭でもある。 大袈裟に言えば、それは “人そのもの” の人生の如し。
色さえ持たぬ時代に有意的なライティングで、陰影の妙と登場人物の心理描写まで描いていた「現金に手を出すな」(ギャバン)
コントラストの強弱さえ彷徨いながら儚く脆い青年の野心を描いた「太陽がいっぱい」(ドロン)
発色の濃さを湛えながらも全編寂しげなダルトーンで進む「個人教授」(ナタリー・ドロン)
あぁ、もう映像の能書きなんていらない「ひまわり」(マルチェロ&ローレン)等々・・。
心のフィルター、薄紫色に彩られたスクリーンの向こうには感動だけが渦巻いていた・・。
単に当時の技術的限界は無論のことながら、当時手にしていた有限の手段を巧妙に駆使し、後世に語り継がれる偉大な映像作品が、50´年代から70´年代にかけて数多く作られた。
言うまでもなく、そこには、見る者の心に深く入り込み魅了するストーリーと、それを演じきってみせる俳優・女優たちの力量、そして それを万感の想いで彩る音楽が、渾然一体となって名作を名作足らしめていたのだ。
「ハーフサイズ」 今では目にすることさえ稀な、フィルムカメラに使ったフィルム規格は1コマ 36mm x 24mm である。”ハーフサイズ” はその半分 24mm x 18mm という切手サイズの規格。 しかし、そんな小さなフィルム画面から映し出されるのが “映画” である。この規格は百年近くにわたって用いられている。(注:”ハーフサイズ” はフィルムカメラ側から見た呼び名であって、元々は24mm x 18mmが映画界におけるスタンダードサイズだった)(また現代はデジタル映写機となって、全く異なるシステムとなっている)
指先に乗るような小さな1コマから 10mを超えるようなスクリーンに映し出される映像は、人の心を揺さぶり何十年も残る感動を生み出してきた。
無論、そこには 今日の高解像度化につながる、数々の技術革新も有ったればこその話ではあるのだが・・、 映像であれ、音楽であれ、はたまた普段の生活の端々であれ、結局のところ、人の心に届くのは、人の想いであり熱意であり、そこから生まれるより良き結果であるはず・・。
技術が技術のため、商売や一部の体制の都合のためだけに突き進むのであれば、そこには空虚な結果だけが待っている。そう思えてならないのだ・・。