タチビな車 vol.12 傍に居たのに

「錯視」・・とは若干 趣きを異にするかもしれないが・・。
人間 目にして脳で認識していることが、いつも正確であるとは限らない。また 頻繁に目にしながら全く認識していない、などということは少なからずあるようだ。

錯視は多くの場合、人が持っている生理学的知見が作用することで、本来の状態が正確に伝わらない状況をいう。混同しがちだが “騙し絵” とは表現手法や意図的か否かなどをもって異なるものとされる。

 

何で こんなことを言い出したかというと・・、確かに何度も目にしていたはずなのに、今の今まで全く正しく認識していなかったからである。

 

『トヨタ・ミニエース』 昭和42年(1967年)発売、排気量800ccの小型トラック。 ずっと軽トラックだと思っていた。それなりに大きさの違いもあるというのに・・。近所で何度も目にしていたのに・・。 スラッとした曲面フェイスと丸っこい目が可愛いと思いつつも、それ以上の認識に至らなかったのである。

マイナーチェンジ後 TOYOTAエンブレムの付いたミニエーストラック

現在の目から見ればマニアック、ヨタハチ譲りの空冷水平対向2U-B型エンジンから36馬力を発生する。 トラックタイプ以外にもワゴンタイプの「ミニエース バン」と「ミニエース コーチ」をラインナップに持っていた。 只、この車体(コーチ)に7人乗りは正直キツいと思うw。

まぁ 見た目は何処から見ても “軽トラ” だったし、また、実際の購入対象にもなり難いため仕方がない部分もあるのだが・・。 同時に軽自動車のナンバープレートが黄色仕様となった昭和50年(1975年)に生産を終了しているため、当時はまだ “小型白ナンバー” との差が 目立たなかったというのもあるだろう。

しかし、都会の真ん中ならともかく、私の居住地では生産終了以降も少数ながら残っていたはずなのだが、軽との差異に目が行くことはなかった。 初期型ではフロントマスク上に “TOYOTA” のマークも無いので、意識したとしても、チョッと大きめな「マツダ・ポーター」と思っていたのではなかろうか。

発売年である昭和42年といえば モータリゼーションの真っ只中、国内の車両保有数も爆発的に増加した時代である。 物流もそれまでの鉄道から車両運送にシフトを移していった頃で、トラックの開発・生産も右肩上がりであったろう。

「二つのお目々 空色の顔」でも取り上げたように「トヨエース」での成功を収めていたトヨタとしては、メインの物流需要以外の小口運送・ニッチな分野での拡販を狙っていたのだろう。 現在では想像し難いが、昭和30年代頃までのトヨタは “トラックメーカー” のイメージが割りと強かったという・・。

そして その狙いは一定数 達せられたのだが・・、
そもそも当時のトヨタは “乗用車” での成功を標榜していた。 屋台骨でもあった物流需要を(日野自動車との提携などで)維持しながらも、絶対的な需要・消費数が見込める “マイカーメーカー” への脱却を目指していたのだ。

 

それは「パブリカ」「カローラ」そして「コロナ」などの成功をして、今日のトヨタを築く基礎として成功を収めたわけだが、その反面、小口物流を担う小型運送車両については早々に見切りをつけられる形となってしまった。

同じ頃 それまで “半トラック−半乗用車” 的に機能していた “ピックアップトラック・ワゴン” が衰退の道を辿り、それぞれトラックとバンタイプに袂を分かった。 そして、入れ替わるように “軽トラック・ワゴン” が頭角を現してきたことが、『ミニエース』の終焉を決定付けたのかもしれない。

 

大きな車は雄々しく頼もしくて良いが、小さな車も捨てたものではない。 小さな車体、小さなエンジンでも頑張って その務めを果たしている。小ささ故の可愛らしさは私にとって得難い魅力でもある。

そう、どちらかといえば私はミニカーに愛着を感じる質である。日本に軽自動車規格があることは私にとって至福でもある。逆にいえば、現代の豪華・高規格化された軽自動車は若干、普通車に寄り過ぎの感さえ抱いてしまう。

故に まだ少年〜青年時代に街中を走り回っていた、この小さな働き者の姿を “正しく認識できていなかった” というのは、我ながら残念の極みでもある。

最早 その勇姿を目にすることも殆ど無かろうが、もし再びまみえる機会に恵まれたならば、半世紀分の想いを込めて愛でてみたいものだと思うのだ・・。

CMキャラクターは 毒蝮三太夫 氏

 

 

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