煙も無き空

本日の記事は忌み事でもあるので、気になされる方はパスしてください m(_ _)m
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書くべきかどうか迷ったが、一区切りというか、(めでたいことでもないのだが・・)ひとつの記憶でもあるので記しておこうと思う。

義父が逝去された。2年前から癌を宣告されていたが、さほど身に窮することもなく畑仕事だのカラオケだの楽しんだ末、半年前位に入院、先日、天寿を全うされた。 晩期はかなり苦痛なときもあったようだが、年齢も年齢であるし、まぁ・・総体として一般的?な “終い” であったのではないかとも思う。

気さくで物事に囚われない人で、事後の処遇(葬儀や墓など)も基本的に不要、後に残った者の都合に全て任せる・・といったスタンス・・。

故に(本家筋でないこともあり)墓も作らず葬儀も極めて小規模の家族葬で行った。

通夜には親戚筋など弔問客の出入りも多かったが、本葬にあっては ほぼ近親者のみで執り行われた。・・が、肌寒くはっきりしない天気が続くこの季節にあって、葬儀当日は終日目を見張るほどの快晴 ポカポカ天気、まこと故人の人柄を偲ばせる日和であったと思っている・・。

親戚や知人の弔事、通夜や葬儀、それに連なる行事には これまでも参列はしているが、基本 他人様の行事。あまり細かいことを気にはしていなかったが、今回 身近に執り行ったことにより、昭和時代からの変化を改めて認識するところとなった。

 

“家族葬” などという小規模・簡素化された葬儀も現代の世相ならでは。その名とともに こういった概念が一般的してきたのは平成以降のことという。 昭和時代の葬儀は親戚は言うに及ばず仕事関係・交友関係、結構縁の薄い知人にまで通知を施して、弔問・参列者の数に任せて行うものであった。 それが故人の遺徳を偲び供養にもなるという考え方でもあった。

実際の規模は その家庭それぞれであるものの、葬儀に伴う手間や費用はかなりのものとなってしまう。葬儀社(それ以前の時代では近所や最小自治体)が間に入って助けるものの、一葬儀後には遺族はくたくた、後に続く事後手続きも含めて疲れ切ってしまう。

高度に合理化されシステム化された現代の “小規模葬儀” が “味気ない” “裏寂しい” とされつつも、多くに支持され利用されているのも、ある意味、理に適った流れというべきか。

霊柩車も旧来 一般的であった仏閣屋根を掲げたタイプは少数派となった。
黒や白のストレッチワゴンタイプ、また一般乗用車と変わらないワゴン車が主流となっている。 その昔、町で霊柩車とすれ違ったら親指隠せなど “今は昔” の風習なのだろう。

新型プリウスの霊柩車、軽ワゴンなどの車種もある。

 

20〜30年前に建て替えられ、その後もシステム更新が施されている地元の斎場(火葬場)も随分とスマートな造りに生まれ変わっている。 20歳代の頃、私自身が喪主となって行われた祖母の葬儀の時は、まだ旧来の建物であった。レンガ造りの建物に高い煙突の立つ、いかにもしめやかな場所だった。

渡されたマッチで紙か小さな木切れのようなものに火を点け、「お別れです」の言葉とともに係員の人が目の前で点火したのを憶えている。 近年、高温の制御火葬炉になってからは火葬時間もかなり短縮されている。

因みに現在の火葬時にはマッチなどではなくボタン式のスタートとなっており、地域によって遺族が押すことが可能だが、あれは点火スイッチではなく、”火葬前のお別れと準備が済んだ” ことを構内の係員に知らせるボタンなのだそうだ。

実際のところ ボイラーに点火する作業は有資格者でなければ出来ないので、ボタンを “火葬とお別れ” に見立てているのだとか・・。 マッチ点火の時代に紙や木切れというワンクッションを挟んでいたのも同様の意味合いとも考えられる・・。

 

 

昭和46年 桐ヶ谷葬祭場 画像©東京博善

 

現代の斎場からは、古く見られた煙や匂いなど殆ど感じられない。 排気筒は当然有るらしいが、コンピューター制御による高温焼灼とその後のフィルター処理で、近隣に影響を与えない仕様となっている。

骨上げを待っている間、斎場の表で空を見上げていたが、晴れ渡った空に煙もたなびかない。

義父であり、家内のお父さんであり、人生を近くに歩んだのは限られた時間でしかなかったが・・、 幼い頃から苦労を乗り越えられ、自らの店と家庭を築くに至り、それでも驕る素振りなど微塵も持たなかった人柄には尊敬の念を感じていた。

有って当たり前の安心感を失ったような想いにかられながら、白い雲だけが其処ここにある空に向かって「お疲れさま・・有難うございました」それだけ胸の中でつぶやいていた。

 

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