タチビな車 vol.10 パプリカじゃねーぞ!

「パプリカ」ではない。「パブリカ」である。 [ Paprika ≠ PUBLICA ]
言ってみれば “国民車(Public car)” を意味するネーミングであり、一般公募から採択された。 名前の誤使用や誤表記を正す表記が Wikipedia にもあったのには笑えた。

『トヨタ・パブリカ』
昭和36年(1961年)発売の一般乗用車。
その名が示すように “大衆に資する車” であり “国民車構想” を標榜して企画された車である。

1961年といえば高度経済成長も目に見えて顕在化していた時期である。既に車は移動や物流の中核を成していたし、”テレビ” “冷蔵庫” “洗濯機” と、いわゆる三種の神器も各家庭に普及してきた中で、いよいよ次はモータリゼーションの洗礼が一般庶民に広がってゆく黎明でもあった。

とはいえ、当時 “車” はまだまだ高級品。”割賦販売(月賦)” 方式も既に定着しつつあったが、それでも高額な “頭金” などを用意する必要があり、¥40~100万円 という価格を おいそれと算段できる家庭は限られていたであろう。

 

戦禍による疲弊から立ち直りつつあったヨーロッパでの “国民車構想とその普及”、圧倒的な物資と先行文化に溢れたアメリカ。 その両翼を目端に見ながら、ようやく世界に誇示する「東京オリンピック」の準備にまで漕ぎ着けた日本。先を走る国々と肩を並べるべく生活文化の一層の向上を図る段階に来ていた。

画像引用 © Wikipedia

全ての国民に普通車を普及させる。 そのために現生活水準に見合った価格で一定の性能を満たした車を開発し、大々的な販売を展開してゆく・・。

既に自動車会社としてリーダー的存在となっていた “トヨタ” から、満を持して発売されたのが「トヨタ・パブリカ」だった。

 

アンダー・リッタークラスのエンジンで時速100km走行を安定維持できること。当時の家庭構成の標準であった4名乗員。優れた燃費性能。そして、バンやピックアップにもバリエーション可能な車体構成を成し遂げながら、セダン ¥38万9000円 という価格を実現した。(翌年発売された軽自動車マツダ・キャロル360でさえ ¥37万円だった)

小型車とはいえ立派な普通乗用車、伸びつつあった高速道路も余裕で走行可能、2ドアとはいえ軽自動車よりずっと広く荷物も積めるキャビン、そして軽に匹敵する価格。 販売チャンネルも新たに整備し、当時 破格であった懸賞金¥100万円を賭けた車名公募も行った。

万全を期しての発表、発売と同時に爆発的な売れ行き! ・・とはならなかった・・。

 

現代の日本において “車” とは “生活の道具” である。しかし昭和30~40年代における “車” は当時の “夢” の象徴でもあったのだ。 しかし そこへ「パブリカ」が提示したその姿は あくまで “価格なり・価格を実現するため” のものでしかなかったのである。

当時 既に “カーラジオ” は普及していたが「パブリカ」にはその装備が無かった。それでも “それがオプション扱い” だというのなら まだ分かるが、”車内ヒーターは無い” “燃料計も無い” “サイドミラーさえ無い” というのは、あまりにも質素に過ぎる。

¥38万9000円という値札が、現実の生活に見合った魅力的な価格であることは分かっていても、年間所得を1年2年丸々叩いて ようやく買える代物が、かように庶民の生活感ギリギリを表現するかのような出で立ちでは、何とも侘しい・・。

如何にまだ途上であったとはいえ、一般の目は「パブリカ」の “オーバー簡素さ” をこう捉えたようだ・・。ある意味 “戦後は終わった” は正しかったのかもしれない・・。

 

三種の神器は普及しても、カラーテレビもクーラーも各戸の固定電話さえ、まだまだこれからの時、されど、人々の目はやがて来るであろう富と繁栄の世界ばかりに向いていた。 買える買えないはともかく、豪華な外装や今までにない新機構に魅力を求めていたのだ。

思惑と世間感覚のずれに気づいたトヨタは、早急に「パブリカ」のイメージアップを図った。 ラジオやヒーター、ミラーなどの標準装備、メッキパーツ外装などをあしらった「デラックス」グレードを追加。 同時に「パブリカ・スポーツ」の参考出品などでユーザーの好奇心を誘い、販売力の向上に結びつけた。

当時の、それも低価格小型車には異例だったAT(オートマチック・ドライブ)導入にも踏み切り、二年後には「コンバーチブル」そして「デチャッタブル」タイプを発表。

これらの苦労が実り「パブリカ」は はじめて一定数の量販数を確保、それなりに成功した車となって、最初の発売から八年後(昭和44年 1969年)、二代目へとバトンを渡す。 二代目も初代同様、トヨタのボトムラインを担う存在であったが、時代の変化に伴う形で “大衆のための車” ではなく “若者が初めて手にする車” の位置づけで展開された。

昭和53年(1978年)2月、通算17年の歴史に幕を下ろした。 低コストで導入でき性能・保守性とも申し分ない車として愛された反面、初代で印象付けられた “安い低グレードの車” というイメージは最後まで付きまとうこととなった・・。

 

発展の途上であった大衆の経済状況に合わせ 世に送り出したつもりが、大衆は既にずっと先(または上)を見ていた・・という、大膨張期ならではのトヨタの誤算であったが、以前の記事でも触れたようにトヨタの力の源は、失敗から学びそれを活かすところにある。

「パブリカ」は、大ヒットというには些か物足りない印象があるが、”低コストでありながらも高品位製品の製造” のノウハウをトヨタにもたらした。 またユーザー目線を確実に把握する重要性を再認識させた。 ある意味 これらは一台や二台のヒット車を得るよりも、遥かに大きなトヨタの資産となったであろう。

トヨタは「パブリカ」の販促のためブラッシュアップを講じはしたが、”高級化” への見切りは早々につけていた。 ローエンドと認識された車にいくらデコレーションを重ねても限界がある。 それならば大衆の目に合わせよう・・否、大衆の目を牽引しよう。

そうして企画・発表されたのが「カローラ」である。 どうなったかは 御存知のとおり。以後20年 “ファミリーカー” の代名詞としてトヨタの屋台骨を支える存在となった・・。

 

車としての「パブリカ」は失敗作であったのか?
エントリーカーとして細やかな一生を送った “端役” でしかなかったのか?

と、問われれば、それは明確に “否” である。
トヨタの自動車史を見てきた人ならば お分かりであろう。

Wikipedia から抜粋

~ 後のスターレット→ヴィッツ→ヤリス 及び ダイハツ・コンソルテ→シャレード、そしてデュエット/ストーリア(シリオン)→パッソ/ブーンへと連なる、トヨタ・ダイハツ両社のエントリー系コンパクトカーの元流である。~

小型車ながら 日本モータリゼーションの真ん中を走り続け、今もなお売れ続ける車たちの創始は「パブリカ」にこそあった。まさに “小さな巨人” ならぬ “お買い得な巨人” だったのだ。

PS:こういう安くて丈夫で基本性能のしっかりしている製品(車)は とても良い。ウン、自動車史抜きにしてもとても良い。私も好きだ。 きらびやかな夢だけでもなく、使うだけの道具でもない、”相棒” としての存在感。ややクラスは違えど 日産サニーB110 辺りとともに、今も一部マニアに愛される所以でもある・・。

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