いつも書くように道楽者なので自分の中の結構な割合を “趣味” が占める。
子育て真っ最中の頃はそうも言っていられないので、ある程度制限されるが、子供が手を離れだした頃から また火が入ってきた・・。と、思っていたら そろそろ終活を考えなければならん年代・・。
まぁ まだ年齢的に大丈夫な範囲のはずだが、人間 60代にもなれば、いつ何が起こっても不思議でない。 いつその時が来ても良いように出来るだけ後始末の面倒は軽くしておきたい。
幸か不幸か? うちの子どもたちは私が好むような “モノ弄り” や “蒐集” 方向の趣味に、全くと言っていいほど興味がない。 要するに私がいなくなった後に残る趣味の品々(ガラクタともいう・・)の継承も見込めなければ、処分するにもその目利きの立たない状態なのである・・。
某オクなどで上手く捌けば1個 1万2万、5万7万で売れるものを、一山3500円で放出されては、自分は既にいないとはいえ少々残念に過ぎる。 なれば 機会のあるうちに適正な価格で、それを欲する人の手に渡った方が品物も喜ぶというもの・・。
と、いうことで 最近 少しずつではあるが 手持ちの品物を減らしていっている状態なのである・・。 まぁ売った金で ついついまた何か買っちゃうんだけどね・・←アホ
こんな 前振りをしたのも、先日売り払い縮小した小品のことを思い出したからである。
Zippo(ジッポー)、ライターを30個ほど処分した。
このご時世 タバコを吸う人は減る一方だし、畢竟それに伴いライターに凝ったりコレクションする人の人口も減少傾向だろう。好きで集めたものではあるが、売ってしまうのなら今のうちと考えて出品、落札して頂いた。
昭和も前半期なら生活上の着火用途もあったろうが、高度成長期以後せいぜいキャンプでの使用を除いて、タバコ以外の需要は少なかったであろうライター。その喫煙需要さえ時代が下がるにつれて減少傾向。世界に名だたる “Zippo” でさえ1980年代以降は事業の縮小・改変を余儀なくされた。
1932年の創立、33年のZippo型ライターの発売以来、質実剛健・耐風性の高さでオイルライターの先陣を切ってきた大家も、時代の風には抗い難かったようだ。
まだ、喫煙人口が多かった昭和40年代、日常、ライター(もしくはマッチ)を持ち歩いている人は多かった。成人男性の・・どうだろう・・7割以上は持っていたのではなかろうか・・?(現在、令和元年においての喫煙人口は男女合わせて3割位)
喫煙者が多ければライターの需要も多く その市場も形成される。時は景気の良い時代であったから、ガスライターも含めて新型、豪華仕様、新機構採用のラッシュでもあった。シンプル&ベスト、旧来そのままであったZippo、この頃はこの頃で苦戦であったのかもしれない・・。(80年代に一時期 ガスライターも発売したが短期間でカタログ落ちした)
横長なスタイル、縦長でスリムなスタイル、正方や丸に近い形など様々な意匠に溢れ、その動作機構にも工夫を凝らされたものが考案された。
ガスライターにおいては火打ち石を回転させて着火する原初的なものから、やがて昇圧電子回路、もしくは圧電素子を利用した “電子ライター” が発売され もてはやされた。
持ち物のひとつとして定着し、その立ち位置が確立して、時に贈答品にさえなると高級品や珍品の類も増えてくる。有名なイギリスの “dunhill / ダンヒル” や “RONSON / ロンソン”、スイスの “Thorens / トーレンス” あたりは、その最たるものであったろう。
そんな手も足も出ない高級品は無理でも、気に入ったそこそこの値のライターをいくつも持ち集めていた人も少なくなかったのだ・・。
・・ところが、ある日、とんでもないものが発売された。
“百円ライター” の登場である。 極めて簡素な外見ながら(液体ガスの残量確認のため)透明なプラスチックを筐体としているため、見た目も さして悪くない。(高級感は微塵もないが・・) 基本 使い捨てというのも “もったいない” の概念が麻痺していた当時としては、むしろ新鮮であったのかもしれない。
何せ “百円” である。 子どもの小遣いでも調達出来てしまう。
当時、バカタレな小学生であった私も興味に惹かれて買ってしまった。
何か「ナチュラ」とかいう商品名でCMを見た気がするが記憶違いか・・。
「オトーサンのお遣い」とか何とか嘘こいて “タバコ” 屋で買い求めたのだ。 今ほどあれこれとうるさくない時代、タバコ屋の婆ちゃんは何気もなく売ってくれた。確か渡す前に着火確認とかしていたように記憶している。
買って何をした・・とか、何かに火を着けたとかは あまり記憶にない。当時、子どもの火遊びによる火事とかニュースも知っていたし、火の扱いが怖いものという認識もあった。 火が云々というよりも、”大人の持ち物” であるライターを手元にしている特別感を持ってみたかったのだと思う。・・まぁ子どもならではのアホ行為だけどね・・(^_^;)
しかし、考えてみれば、あの “百円ライター” がターニングポイントだったのだろう。
以降、急速に百円ライターは普及し それまでの “商品” としてのライターを駆逐していった。 それが “Zippo” であれ “dunhill” であれ、ライターそのものにこだわる人・愛着を持つ人は、いわゆる、マニアか “使い捨てはもったいないor環境問題” の人だけである。
元々、火をおこすための道具であったライターは生活の必需品となり加飾され、そしてまた単なる道具への道を辿っていった。
これはライターに限らず大半の商品・製品が辿る道筋、宿命のようにも思える。相当に道具化が進んだ現代の “自家用車” も、これから30年の内には区別もない単なる “コミューター” と化しているかもしれない。
世にある多くが電子化され、光熱も自動化され、そして喫煙もいつか消えゆく文化だとすれば、”ライター” そのものの存在意義も霧散してゆく。 手元で火を着けるのは僅かに “チャッカマン” のようなものだけが残るのだろう。
何となく寂しい気がするのだが、これも世の流れなのである・・。
しかし、大半の商品・製品の加飾も高級化も憧れさえもが失われ、道具的機能と合理性だけが横溢する社会って、どんな感じなのだろう・・? あまり考えたくもないが・・。