「私はカモメ」 1963年 ソ連のボストーク6号に搭乗し、人類初の女性宇宙飛行士となった “ワレンチナ・テレシコワ” 氏による有名なフレーズである。
まぁ実際のところ、搭乗員の呼び出しコールである “Ча́йка(チャイカ)= カモメ” を使用して「こちらカモメ、応答どうぞ・・」のように通信しただけなのだが、どういった案配か、チェーホフの戯曲と絡めて、やたら意味深な感じのフレーズとして広まってしまった・・。
2年前に人類初の宇宙飛行士となった “ユーリィ・ガガーリン” の「地球は青かった」に比するものとしたかったのかもしれないが・・、いつの時代も一部の勢力やメディアを通して発せられたものは、何かしらのバイアスが掛かっているものである。剣呑々々
・・で、「私はカモメ」と全く関係なさそうなカエル、それも「ど根性ガエル」の絵との組み合わせ、これでピンと来たなら、貴方は余程のアニメフリークか・・少々斜め上を行きそうなマニアさんであろう・・。
本日は宇宙開発時代の話ではなく、アニメの歌い手さん、正確には歌手・声優・俳優を務められた “石川進” 氏についてである。
ご存知の方は・・まぁ少なくはないと思う。年代にもよるが「ど根性ガエル」、古くは 初代「オバケのQ太郎」などの主題歌を歌っておられた方といえば、ほとんどの昭和少年には耳に憶えがあるだろう。
「Q・・キューキュー・・♪」 独特の声音で子供たちに馴染みの深い石川氏は、その風貌もまた特徴的で、さながらニックネームも “キューピーちゃん” であった。 正直、一歩間違えれば “ナメてんのか!? ” レベルの呼び名にも感じられるが、ご本人は不満を表すこともなく黙々と仕事に励んでおられたようだ・・。
因みに “キューピーちゃん” のネームが定まったのは「Q太郎」よりもずっと以前である。
元々、アメリカンポップスやJAZZに憧れて歌手の道を歩んだ石川氏、坂本の九ちゃん(そういや コッチもキューちゃんだなw)などと組んで売っていた時代もある。
当時のことなので平板な喉では相手にされず、コミカルながらも その歌唱力には抜かりがない。
アメリカンポップスが下火になった 昭和30年代後半頃から、純粋な歌手業に見切りをつけたのか声優や俳優業に重心を移してゆく。 私にとっての “石川進” はやはり「オバケのQ太郎」の歌、そして「おはよう!こどもショー」におけるキューピーちゃんのイメージであろう。
もう一つ、俳優 “石川進” を認識したのが「ウルトラQ」における出演である。「オバQ」と殆ど同時期の放送だったから、自分の年齢も重ねて考えると「ウルトラQ」再放送の時だったのかもしれない・・。
ここで ようやく「私はカモメ」へのこじつけがつながる・・
(^_^;) ヤレヤレ
「ウルトラQ」第10話「地底超特急西へ」において、国鉄?新東京駅の役職者 “西岡主任” として登場するのが石川氏・・、一見 気の良さそうな、それでいて融通の効かない、オマケに何処か抜けているような微妙な役柄を、自らの特徴を活かしながら好演されていた。
「地底超特急西へ」は「ウルトラQ」の中でも割と特異な作品で、近未来の科学信奉主義への批判も込めながらも、ユーモラスかつファンタジックな仕立てであった。
冒頭に映し出される “新東京駅”(何故か名鉄パノラマカーのようなものが走っているw)、未来感満載の駅だが、何故か靴磨きの少年が登場する(作品放送時でも既に子供の靴磨きはいなかったと思う・・)どこか新旧綯い交ぜのファンタジック・ワールドである。
特に終幕において悲惨な終わり方であり、当然、少年も人工生命体M1も即死であるはず・・にもかかわらず、衝撃の反動からカプセルごと大気圏に放り出され、そのまま人工衛星よろしく軌道上を周回。 極めつけがM1による「ワタシハカモメ・・」は中々に意味難解・衝撃的であった・・。
昔話・民話に散見、包含される “夢のごときままに描かれる死の世界” を彷彿させて興味深い。
“最後(究極)の超特急” の安全性を自信満々に説きながら、破局の直後に失点を思い出すという難しい? 演技・役どころを見事に演じた石川氏、この作品以外にも、その妙味を活かしながら多くのドラマ・映画、そして声優業で確かな足跡を残されている。
残念ながら、氏が活躍しておられた時期はまだ、漫画やアニメそしてそのプレイヤー達に陽のあたる時代でなかったこと、後に起こる事件の影響から顧みられること久しかったが、時置いてまたステージに立たれた。
第2次アニメブームとでもいうのだろうか、社会に対して “漫画” や “アニメ” が単なる子供の娯楽ではなく、”作品” “表現” として認知されはじめたのは、やはり「宇宙戦艦ヤマト」以降からだと思う。 いうなれば石川氏などは僅かなタイミングのずれで、この波に乗りそこなったと言えなくもない。 彼が昭和30~40年代に残したものの大きさを考えると、もう少しクローズアップされても良かったのではないか・・、一抹の残念さが拭えない。
しかし、彼も晩年には原点に立ち戻り、アメリカンポップス(ハワイアンバンド)を組んで再び歌っておられたそうだ。 軽快・洒脱なポップスのリズムを標榜するかのような人生であったのだろう・・。