以前、小中学生時代 それぞれ3回ずつ転校、計8つの学校に通ったことを書いた。 些末な問題は幾らかあったものの、どの転校先でも孤立して独りぼっち・・になることもなく、1〜2週間も経つうちには友達も出来て、何とか馴染んでいった。
とはいえ、就学期間をそれだけ区切ってしまうと、ひとつの学校あたりの在校期間は当然短くなる。最も短かったのは中1前半、入学式から2学期の始めまで半年足らずという期間であったか・・。
そのひとつ前、小学校最後の在学は6年生の一年間であった。今日の記事はそこであったレクリエーションを思い出したことが発端となっている。
現代の小学校でも そういうことやっているのだろうか? 月に一度から学期間に一度程度の割で(主にホームルーム活動の一環として)行われる、自由発表会のようなものである。 一人で、あるいはグループで、歌だのショートコントだのマジックなどの出し物をやっていた。 大人の世界であれば宴会芸の出し合いといった感じ・・。
友達二人と組んで三人組で歌を歌うことになった。 当時は「フィンガー5」がやたら流行っていたが、さすがにあのノリで歌うには気が引けるし 何より人数が足りない。
話し合いの結果、三人組ということで決定されたのが「ガロ」、歌は「学生街の喫茶店」であった。

出し物は決まったものの、誰が誰の(マーク、トミー、ボーカルの)担当をするかでモメたw。 「ガロ」は誰がメインという構成ではなく雑誌やレコードのジャケット写真などでも、その度に三人の並び方が変わるが・・、やはり目立つのは “マーク(堀内護)” である。
私的には “演るのはいいが、目立ち過ぎるのは避けたい” 出来ればトミー(日高富明)かボーカル(大野真澄)の位置で! と主張したが、他の二人も同じ感覚であった。要するに、似たもの同士が寄り集まったということであろう。 “ジャイアン” のような気性の者が一人居れば、すんなりマーク役が決まったのだが・・(それはそれで色々と問題もあるか・・w)
ともかく結果的に私がマークを担当することになってしまった・・。
ただ歌うだけでは芸がないので、見た目を繕うことになり帽子だのメガネだのと用意された(トミー役は地味でいい)。 ギターなど持っているわけもないのでダンボール箱を改造して作った。そして髪型だが・・。
当時のちょいとイケてる?若者の定番ヘアスタイルは やはり長髪、ヒデキもゴローもアキラ(晃)も皆長髪、当然 ガロも同じく・・。 一発宴会芸のために髪を伸ばすわけにもいかず、考えついたのが毛糸を使ってのカツラであった。
ダンボールのギターを膝に抱えて毛糸のカツラにトンボメガネ・・、そもそも前に出たくないのに真ん中に座らされてのこの雄姿(醜態ともいうw)
クラスの皆にウケたかどうかなんぞ意識の中に無く、只々恥ずかしく早よ終われ早よ終われと念じながら歌っていたのを思い出す・・。
「学生街の喫茶店」は 昭和フォークソング時代の終盤を飾るに相応しい一曲だと思う。
ただ、この曲でブレイクを果たした「ガロ」は元々もうチョイ、ロック寄り、 “和製CSN&Y”(フォークロックやカントリーロック方向)とも呼ばれたバンドであり、この曲をレコード会社から推された時は、あまり乗り気ではなかったという。
しかし、そんな気の乗らなかった一曲でヒットを飛ばし、ついには紅白歌合戦にまで出場するに至るのだから、運命は皮肉とでもいうか・・何がどう転ぶか分からないのが人生とでもいうか・・。
その後「君の誕生日」や「ロマンス」などが立て続けにミリオンセラーとなり、「ガロ」は名実ともにメジャーなバンドとなるが・・、同時に、この頃から彼らはその行く先を見失いつつあったのかもしれない。
ハード指向ではないものの、アコースティックな音作りの上に、抒情と軽快なリズムを刻んでゆく彼らの音楽性は、商業路線に乗った途端、ほぼ完全に無視されることとなった。
無論「学生街の喫茶店」も「ロマンス」も後世に残る名曲であり、故にこうして私達の胸の中に「ガロ」の名とともに今も息づいているわけだが・・ 彼らにとって これらの歌は、自らに栄光をもたらすとともに破滅をもチラつかせる、まさに諸刃の剣だったようだ。
新しい時代を切り拓くフォーク&ロックの創造に燃えながら、いつしか人気芸能人の仲間入りを果たしてしまっていた彼らは、与えられた音楽性の矛盾に翻弄されながら、自らの仲間内でも齟齬をきたしてゆく・・。
人気沸騰から わずか三年、彼らは “解散コンサート” を催して後、それぞれの道を歩むこととなった。 後年、何度か復活ユニットを組みはしたが大きな耳目を集めてはいない。
今はもうマークもトミーも彼岸に渡ってしまった。ボーカル大野真澄のみが地道に活動を続けているという。
実質 1〜2年間、熱病のような絶頂期は、彼らにとって蜜月であるとともに苦悩の時でもあった。 しかし、世の端の三人の小学生坊主がその真似をするほどに、その時 彼らは輝き、日本の歌謡界に確かな足跡を残したことも 紛うことなき事実だ。
大野真澄も後年の活動で何度も「学生街の喫茶店」に触れている。
ただ懐かしい、思い出深いと思い返す我々と違って、彼にとっての「学生街の喫茶店」は、尽きることのない思い入れが詰まった想い出の場所なのだろう・・。