先にネタバレ・・、鉛筆会社のお話。
インターネットで “コーリン” と検索すると、ストリートファイターというテレビゲーム?に登場するらしき、女性キャラクターばかり出てくる。ベッピンさんだが もひとつ恐ろしげで怖い・・パス・・。
肝心の検索目的、当の会社ホームページが出てこない・・
以前は有ったけど今は無いのか、それとも何らかの理由で会社サイトを持たない方針なのか・・。 Facebook 及び Twitter にはアカウントページを据えているので、まるっきりネット展開に関心が無い訳でもなさそうだが・・。
会社の名は「コーリン鉛筆株式会社」(旧会社名)、昭和時代を生きた諸兄にはお馴染みの文房具ブランドである。 大正5年創業、 “三菱鉛筆” “トンボ鉛筆” と並んで “国内鉛筆御三家” の一角を成していた。 ちょっと妙?な感じの三角マークを憶えておいでの方も多かろう。
妙?な感じ とは失礼な・・! このマークは西洋美女の横顔・・らしい。イギリスだかアイルランドだか よく解らないが その周辺の国、そもそも “コーリン” という言葉そのものが、アイルランド語で “愛らしい少女” を表すという情報もある。
微笑んだ横顔をやや強引に三角スペースに当て込んだようなマークは、明治時代創業の石鹸・洗剤メーカー “花王” の旧タイプマークに通ずるものがある。古のアイデンティティーを現代につなぐ貴重なデザインでもあったのだ。
ところで、このマーク、顔の向きが右向きのものと左向きのものとが存在する。
当初は右向きの顔で その後に “COLLEEN・・” のロゴが並んでいた。
只、これだと文字を引っ張りながら後退するイメージがある、ということから 昭和57年(1982年)左向きの顔に変更、前進のイメージへと改めたのだそう・・。
当時のコーリンは業績も右肩上がりで業界3位といえど確固たるシェアを誇り、特に色鉛筆の分野では展開も広く、多彩な色数と滑らかな書き味で多くのファンを獲得し、カラーに強い鉛筆メーカーとして知られていた。
コーリンでは品名を主に “No.” で表しており、特に「No.770」は色鉛筆の代表的銘柄として その歴史に名を残している。 1990年代前半にはフラッグシップモデル「No.3000-SD MILDEX」の発売にも至った。
しかし、奢れてはいないが久しきも覚束ず、どんな組織にも衰勢の時というものはあるようで、独自品質にこだわり過剰投資が過ぎ、コスト調整に手遅れたか 次第に業績も悪化し、海外にも拠点を設けるなどしながらも、平成9年(1997年)ついに その80年の歴史に幕を下ろすこととなってしまった。当時の負債総額70億円といわれる。
平成9年といえば “失われた十年” ともされる平成不景気の真っ只中、文具業界やその周辺ではともかく、混迷の時代、おびただしい数の企業が倒産していた中 コーリンの閉業もその中のひとつであり、世間から大きな耳目を集めず静かな幕引きとなっていた。
しかし、独立採算だったのか非連結子会社だったのか、それともゴタゴタの中で単に放置プレイだったのか、海外拠点である “コーリン鉛筆タイランド” に 本社倒産の報がもたらされたのは破産手続きの数日前、確認のため責任者が日本に戻った時には何も残っていなかったという・・。
事実であるなら随分と無責任な話に思えるが、それくらい混迷を極めた時期であったのかもしれない。
ところが、この責任者が実にバイタリティー溢れる人で、「歴史ある鉛筆ブランドを何とか残したい」との理念から、独自に会社商標を現地法人に取得・移動、新・コーリンの再生に向けて立ち上がったのである。
言葉で言い 文字で書くだけなら簡単だが、実際にこれを行い成し遂げるには並大抵の信念と行動力では及ばないだろう。資金はもとより設備もままならず、会話疎通さえ十全でない海外での会社復興は、常人の想像を超える苦労であったはず。
それでも、タイ国内や東南アジア向けの生産ラインを整えながら 復興への道程を築くと同時に、元々コーリンが持っていた高品質鉛筆の再生を模索、日本国内の “芯” 製造業者に協力を仰いだ。その品質再現に7年掛かったという。
熱意衰えぬまま、2007年には東京に株式会社コーリン色鉛筆設立準備室を設け、2009年ついに『株式会社コーリン色鉛筆』の立ち上げに成功した。
以降、旧コーリンで人気を博していたNo.770 などを皮切りに、次々と復刻版を発売し旧来のコーリンファンを喜ばせるとともに、新規のリピーターをも日々増やしている。
あの三角マークも立派に左を向いて受け継がれているのだ。

一人の熱い男のチャレンジと伝統ブランドの再生、今回は主に下記のページを参考に紹介させていただいた。 少し古い記事だが、スペシャルイベントにおける “熱い男” 現社長と社員らによるトーク&実演だが中々に興味深く面白い。ご一見のほどを。