気恥ずかしい題名・・お許し願いたい
高校時代、まだバイク免許の取得・運転が許されていた。
私の通った学校は運転可というだけだったが、同県内にはバイク通学可の学校もあった。地方なので中には通学に不便な生徒もいるという配慮からだろう。
しかし、年端もいかず 事故への恐怖や社会的責任の意識も育っていない若年世代、そのくせ調子に乗りやすい年頃なだけに 大小様々な事故が絶えない。
自分は幸い大きな事故を起こさなかったが、何度かマクレはした(マクレる=コケる / 転倒する、一部地方で使われる方言) ウインカー不点灯で急に幅寄せしてきた車に当てられ病院に運ばれたこともある。(当日 帰宅したが・・)
そもそも昭和53年まで原付はノーヘル可であった。今 考えると恐ろしい時代でもあるw。
昭和40〜50年代は若者の運転中事故の最も多かった時代かもしれない。
当然 こういった状況には親も学校も頭を悩ませていたようで、(少なくとも全日制の)就学生徒に関しては免許取得の禁止措置がとられるようになっていった。
法的には16歳以上 免許取得可なのだが、学生のうちはダメ!という話・・。
丁度、私の世代前後から就学中のバイク禁止が広まっていったのではなかろうか。都会や町なかの学制ではもっと早かったのだろう・・。
暴走族でもなく無茶な事故も起こさなかったが、私たちの世代の事故増加で、後の世代が乗れなくなったような気がして何となく申し訳無い。

重い話を前に置いてしまったが、学生時代のバイクは自分にとって まこと青春の象徴のような存在であった。それまでの自転車と異なり行動範囲が飛躍的に高まる。ガソリンさえあれば何処にでも行ける夢の翼でもあったのだ。
翼と言っても当時の世帯・高校生、排気量のある大きな翼を買ってもらえる家など ごく僅か、そもそも親の立場からするとバイクなんて危ないもの・・といった感覚の方が強かろう。 畢竟、長期間バイトでもして資金を貯めるか・・原付バイクを買ってもらうか、ということになる。
結果的に50ccのバイクが学生のマストアイテムとなった。主に「ホンダ DAX」「シャリー」「ヤマハ Bobby」あたりが巷に溢れた。 当時の感覚では「カブ / Cub」はまだ “オシャレ” で乗るものではなく実用車、オジサンの乗るもの、「モンキー」はチョッと小さすぎて・・マニアが買うものといった感じだったろうか・・。 スクーターブームが到来するのは まだ少し先の話である。
ともあれ、”ミニバイク” は この時代一気に増えた。男性青少年だけでなく女性向けにも「シャリー」や「ヤマハ チャピィ」「スズキ ユーディミニ」などが好評で よく売れたため、尚のこと街を行き交う “小さな足” は幅を利かせはじめることとなった。
私はというと・・、やはり「シャリー」から乗り始めた。半分、家用のバイクである。16歳高1で免許を取って嬉し恥ずかし意気揚々と乗り出した。
途端に派手にマクレた・・。田舎の下りカーブでジャリ道に関わらず 考えもなしに突っ込んで行ったら、マクレの見本のようにマクレたのである。左の肘からズルむけになってしまった。アホというか、ドンクサイというか・・、(^_^;)
シャリーで半年位走ったか、いくらかバイクの挙動にも馴れ、転倒や事故の恐ろしさへの認識も芽生え始めた頃、自分専用のバイクを買ってもらえることになった。
はっきり言って貧乏な家だったのに、何故かこの時だけは大きな反対もなく買ってもらえた・・。逆に言えば被扶養者時代の唯一最大のプレゼントでもあった・・。
車種は「ホンダ CB50」(JX-1) 原付でありながら 最高回転数 10500rpmを記録する、極小排気量ながら完全なロードスポーツである。
このバイクで高校時代2年間、卒業して夜間大学に通いながら2年間、喜びも悲しみも綯い交ぜに織り込みながら若い時間を走り続けた。 おそらく生涯 忘れることのない青春のモニュメントと言ったところであろう。
このバイクで色々な場所に出掛けた。学友と遊ぶ時はもちろん、ソロツーも好きだったので2県跨いだ遠い場所にも行った。 とあるバイク屋のオヤジが「原付で高回転なんて意味ない・・」とか言っていたが、(実利的にそうであっても)私にとっては それこそが CB50の醍醐味でありアイデンティティーであったのではないかと思っている。
「シャリー」や「DAX」が大勢の中でも「CB50」のような原付ロードバイク、オフロードバイクも少しずつ増えていき、その覇を競っていた。 メーカーは次々と魅力的な50ccを発表し、その内容は現在の中型車種市場より色とりどり 華やかなラインナップであったようにも思う。
今では考えられないようなミニバイク黄金時代、次回はその一片に触れてみたい。
