二つのお目々 空色の顔

いつの頃だったか憶えていない、先日書いた「コショウの香りをもう一度」一宮市の叔父の家近所だったか、何処か親戚の家に伺った時に見たようなイメージだけ残っている。

古い木造の家々に挟まれた小さな空き地にその車は停まっていた。

モータリゼーション勃興期、主要な道路での “渋滞” などが都心部のあちらこちらで見られるようになって来た頃、それでも今ほど車の種類も多くなかった。クラウンを頂点?に、カローラだのサニーだのパブリカ、ファミリーあたりが覇を競っていた頃の話である。

 

小学校に上がって間もない私でも、その車が普通車ではない、普段あまり興味を惹かれない “トラック” であることはすぐに解った。 それでも何かその面持ちに惹かれたのである。

全体が鮮やかな(当時はそう思えた)空色に塗られ、フロントフェイスには傾斜が掛かっている。コロンとした丸い二つの目、”ここが鼻です” とでも言いたげなベンチレーター(空気取り入れ口)、”イィ~ッ” っと開いた口(グリル)、どこか昭和の輸入物SFドラマに出てきそうなロボットっぽい顔立ち・・。  2代目 トヨタ・トヨエースの姿である。

車のフロント周りは得てして人の顔に例えられがちであり、それは古くからそうであったが、この時の印象は私にとって特に “ちょっとすっとぼけた、それでいて可愛い” 顔として、以来 長く心のなかに刻み込まれたようだ。

 

当時はまだ大型運搬車の中でも3輪トラック(オート3輪)が結構な割合で走っていた。子供の目から見ても、もう一つ不安定そうに思えた3輪トラック、近所の交差点で迂回中だろうか、転倒していたのを2度ほど見掛けた記憶がある。

そして、トラックはじめダンプやバスでも まだまだボンネット型車両が現役だった頃、トヨエースは運搬車両後発組ながら、1トンクラス小型で4輪セミキャブオーバー型を採用して参入したという。(4代目からはキャブオーバー型)

戦後、物資欠乏の時代、オートバイに荷台を括り付けて走ったところから発展してきた3輪トラック、その不安定性や危険性を払拭し 尚かつ価格面でも50万円前後と、安価だった3輪と同等に渡り合えるコスパを実現したことから、トヨエースは一躍 小型輸送における寵児となったのだ。

 

初代のまだ旧式トラック然とした出で立ちから、一気にキャブオーバースタイルを前面に打ち出したフロントフェイスは製造コスト削減のために、平板プレスの単調なものとなりライト周りやグリル配置もシンプルな形となったが、それが却って前述の愛嬌のある顔を生み出すこととなった。

チルティングキャブ(整備のため運転席ボディ全体を傾けられる方式)まで搭載した この2代目は売れに売れ、後の4灯マイナーチェンジ版も含めて、1971年の3代目交代まで実に12年間に渡って製造され続け、躍進期のトヨタの屋台骨を支えた大ヒット商品であった。

 

画像出典:Wikipedia

1971年8月にトヨエースはついに3代目へとバトンタッチされる。全体のデザインは先代を継承しながらも、曲面を取り入れた ややふっくらとした感じとなった。同時にヘッドライトもグリルと一体化したユニバーサルなものとなり、追随を果たしてきた他社トラックとの差異は薄れ、以降 大きな販売量を誇りながらもデザイン的な特異性は失われていった・・。

1985年に登場した5代目は いまだ極稀に見かけることがある。今日 記事のメインとして取り上げた 2代目トヨエースは、さすがに50年の時を超えて見かけることはほぼ無い。

しかし、どういうわけか現在でも昭和を懐かしむ諸兄においては、やはり2代目トヨエースが人気である。 愛らしい、少しトボけたような表情、そして、日々上を目指して歩いていた、あの時代の空を象徴するかのようなスカイブルーに人々は魅了されるのだ。

 

実は 以前、昭和関連のFacebookグループに所属していたことがあり、当時もこの “トヨエース” をディスカッションに投稿させて頂いたことがある。

多くの好意的な反応を頂いたのだが、その時はまだ “トヨエース” が トヨタのラインナップに載っていた。長命な車・ブランドネームとして私自身 驚いたものである。

しかし、その後程なくして・・ 2020年3月31日、65年に渡る歴史に幕を下ろした。
自分と直接な関わりが無いとは言え、長く続いた名が消えてゆくのは何となく寂しいものだ。

中・小型運搬車として市民の生活を支え続けてきたトヨエースを見ることはもうないが、その志とDNAは “トヨタ・ダイナ” として、これからも受け継がれてゆくのであろう・・。

画像 © トヨタ・ダイナ カタログより

 

 

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