タチビな車 vol.3 執念は実ったか

日本中が万博に沸き経済成長の頂点を謳歌していた頃、先発の自動車会社群を追うホンダ(本田技研工業)が、大きなターニングポイントを迎えていたことは多くのモーターファンが知るところだろう。

戦後間もなく自転車に取り付ける後付けエンジン「カブ」に端を発し、後の同名の50ccバイクや “ドリーム” の大ヒットで地盤を固め、オートバイメーカーとして確たる地位を築いていたホンダだったが、次のステップ、自動車メーカーとしても既に軽トラックの「T360」スポーツカーの「S500/600/800」で一定の評価を得ていた。

しかし、どちらの車もその内容、特に動力系についてはレーシングカーのエンジンをそのまま移設したかのような高度技術の塊であり、とりわけ実用性最優先であるべき「T360」にあって高回転域重視のエンジンは、オーバースペックであるとともにコストの上昇を招き “販売” という面では決して成功した車ではなかった。

 

それでも自動車メーカーとしての確立を目指すホンダが、軽トラック、スポーツカーの次に市場投入車として送り込んだのが「1300 / ホンダ1300」、基本的なプラットフォームを共有しながら “4ドアセダン” “2ドアクーペ” を構成する、言ってみれば当時の車社会の中核を目指した戦略車であった。

つまり、カーマニアや商業使用ではない一般的ニーズを想定し、相当数を売り上げなければならない車作りが求められた “試金石” というべき車でもあったのだ。

ところが、ここでも “ホンダイズム” ・・と言うより “本田宗一郎イズム” が発揮された。
エンジンはバルブ駆動形式こそメインテナンス性やコストを考慮してシングルカムとされたが、基本、高回転・高出力タイプであり、調整に手間の掛かる “4キャブ仕様” も設定された。

そして何より “空冷式” である。本田宗一郎はこの空冷式に殊の外 拘った。シンプルな構造で故障や調整も少なくて済み、大幅な軽量化を図れる空冷エンジンは「レースは走る実験室」と標榜していた彼の、動かし難い技術的マイルストーンであったのだ。

4ドア セダン

昭和44年6月「ホンダ1300」は発売された。爆発的に拡大する車社会のメインストリームに打って出る中核車種として、ホンダの期待を一身に浴びて世に放たれたはずだが・・

結果を先に言ってしまえば、その販売期間はわずか3年、販売台数は10万台あまりという、お世辞にも売れたと言える結果ではなかった。

原因のひとつは、当時まだ “ホンダの車” に対する認知度が高くなかったことが挙げられよう。 プリンス自動車は日産に吸収され 日野自動車もコンテッサを最後に乗用車生産から手を引き、業界が固定化されていく中で再後発であったホンダ、バイク屋の作った車に対する目がまだ育っていなかった。

そして何より・・、車としてのホンダメーキングもまだ発展途上であったのも事実であっただろう。いかに高性能至上主義とテーゼとしていても消費者が求めていないものは売れない。

一番の肝であった空冷4気筒エンジンはDDACという工夫を凝らした機構を施し、タウンユースに対応をしていたが、それが故に大幅に重くなってしまい空冷エンジンのメリットを相殺してしまった。

重くなったエンジンのためにフロントヘビーとなり、それが足回り・操作性に負担を強いた。 只でさえ当時の技術で未解決だった FF癖に拍車をかけてしまい、ピーキーなエンジン性格と相まって、かなりクセの強い操作性となってしまったのだ。

2ドア クーペ7S ラリーイメージのカット

完成度という点では疑問の残る「ホンダ1300」であったが、その技術的なチャレンジ精神では今も評価を受ける車であろう。 空冷エンジンも永くそれを採用し続けたポルシェの例があるように、ある一定の条件下での優位性は保証される。

一定の条件下とは “高速巡航が維持される走行” 、長時間 高速道路やアウトバーンのような場所を走っているような、要するにレースに準じたような状況で、最もそのメリットは最大限となる。 逆に言えばストップ&ゴーを繰り返すタウンユースや 渋滞に喘ぐような状況では不利を拭えない。

あくまでレースでの栄光や結果、そこからもたらされるフィードバックが基点にあったのか、本田宗一郎は稀有の技術者であり経営者であったが、そこから離れられなかった。

騒動ともいえる社内技術陣との葛藤の末、この1300の失敗をもって後進に道を譲ったと言っても過言でなかろう・・。

 

本田宗一郎は負けたのか? と問われれば それは否であろう。

彼が一線を退いた後も、ホンダの車は 車種に依らず永くクセの強い側面が見られた。他の多くのメーカーがオートマ車の開発にトルコン式を採用する中、独自の遊星ギア式 “ホンダマチック” を使い続けたり、ウインカーをはじめとしたコラムまわりの操作感も独特のものだった。 昭和の時代を通じてホンダは独自性を追求し続けたのである。

1300の後を継いだ「シビック」は、新開発の “水冷エンジン” を積んで日本の車社会どころか世界戦略車として企画され、立派にその役割を果たし半世紀経った今も残るホンダの金字塔となった。 初代においてCVCC(低公害機構)を採用する時代の先取りをも果たしていた。

1300と相反するかのようなシビックの成り立ちだが、それは1300の存在あってこそ、本田宗一郎の信念と情熱あってこその開花ではなかったか。

主義主張は異なれど、絶対的な技術指向と飽くなき熱意で時代を切り開いてゆく思想・社風は、宗一郎が培いホンダの社員が受け継いだものであったのだから。

徒花となり “タチビ” に取り上げられる結果となってしまった「ホンダ1300」だが、そこには立派にホンダの魂が宿っていたのだ。

 

 

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