正月飾り

年末、仕事納めの日には日中 日の高い内に仕事を終わらせ、空いた時間で社内のすす払い・大掃除、 4時過ぎには用意された注連飾りや餅が各部署へ運ばれ、この日ばかりは全社定時で終業・・「それでは 良いお年を・・良いお年を」。

昔、在籍した会社での年越しはこんな感じであった。今でも同じような感じで年を越されている会社も それなりにあるのではないだろうか。 とはいえ時代が経つごとに注連飾りも各課から各部へ、各部署から各フロアへと減数され、鏡餅も正月明けの鏡開きとともに割愛され、年々 簡素化の一途を辿っているのではないかと思うが・・。

やはり平成初期 いわゆるバブル崩壊以降の不景気で、それどころでない、年を越すので精一杯の雰囲気が全国的に広まってしまったからなのか・・。 まぁそれとともに、神仏や縁起など目に見えないものに対する感心が、社会全体から薄れつつあるのが大きな要因だろうが・・

 

会社だけでなく 個人の家庭でもそれは同じことである。玄関前に正月飾りを設える家もかなり少なくなった。手間の掛かる門松など近頃では水商売のお店でも中々見かけない。
昭和の頃には当たり前に見られた、車のフロントグリルに付けた注連飾りなど今なら貴重な存在である。

勿体つけて書いている私自身も、マンション暮らしとなって30年ほとんど設えていない・・。

正月飾りや門松・鏡餅は単なる正月のキーアイテムではなく、その年の家族を見守り一年の加護と福をもたらしてくれる “年神様” が、それを掛かりにやって来て正月期間中坐す “依代的役割” を担っている。

鏡開きには神様の力が宿った餅を割って食べることで、その力を人の体内に取り込む・・そういうシステムになっているのだが・・、合理的な現代社会、いつ来てるのか いつ帰ったのか解らない神様のために割く手間や費用、否、それ以上に心の余裕が失われているのかもしれない。

 

されど、年越し・正月には寺社に出向き、二年参り・初詣をする人がいまだ相当数あるのは どういうことか・・?

熱心な信徒さんはともあれ、多くの参拝者で日頃から神様・仏様と熱心に信仰を積んでいる人は稀だ。 日本は仏教徒の多い国とも言われるが、実際、法事や墓参り以外で寺と関わりをもつ機会は少ないし、若い世代ともなれば尚のことであろう。

それでも皆、心のどこかに神仏の影を宿している。
意識なんてしない。ご利益だの罰だの 増してや祟りだの真面目に信じるわけじゃない。

・・でも何となく・・、どこかにそういった事が、無くもないような気がして割と真面目に手を合わす・・。

年越しの設えも普段のお参りも中々行き届かないけど、今日は一年の区切り めでたい日、どうか本日のお参りで、特別ではなくとも程々の安泰程度はお授けくださいと手を合わす。 進学やら恋愛やら娘の出産やら具体的な望みのある人は いや増して熱心に祈りを捧げる。

ご都合次第、と言えばそのとおりなのだが、あながち恥入ることでもない。
古来、人と神仏の関わりとは そういうものではなかったろうか・・?

無論、歴史上 信仰に殉じるほどの人々が数多く居たことは知っている。
しかし、総体として自然崇拝(アニミズム)・多神信仰を基盤としながら、閉ざされた島国の中で生きてきた日本人は、神の意思のもとに生きる、というよりも、神とともに生きる感覚をそのDNAに刻んできたように思える。 元は多神教の名残りを残していた仏教も それ故 その導入に馴染み易かったのかもしれない。

結果、 特別 意識はしないままに心の中に神仏が息づいているのではなかろうか。

まぁ宗教のことに あまり踏み込んで書くべきではないので、ここで打ち止めにするが、ともかく 物事を曖昧に、そして程良い加減で折り合わせることに長けた日本人ならでは、ユルく程々に神様と生きてゆけば良いのだろう。

 

今はもう殆ど死語となってしまったが、昔は「旗日」という呼称が有った。国民の祝祭日、各戸の門前に国旗を掲げて祝うアレである。 全くというわけではないが、現在 旗を掲げている家も少なくなった。

正月飾りも祭日の旗も、季節や記念日を感じさせる町の風物詩として輝いていたが、いつか そんな風景も写真の中でしか見ることの出来ない過去の記録となってしまうのだろう。

でも、そんな中にも心の片隅にほんの少し、神様や仏様の影は生き続けてほしいと思うのだ。

 

 

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