聖徳太子は笑っていたか

早いもので11月も今日で終い、今年も残すところ1ヶ月となった。
毎年同じような気分を想い起こしながら歳を重ね、重ねるごとにそのスピードが早くなってゆく。 感覚的に言えば現在の1年間は、若い頃に感じた半分以下の長さのようにも思える。

月締めでもありYouTubeの動画・歌をもとに2篇 ご案内して11月記事の括りとしたい。

 

『蘇える金狼』 『白昼の死角』

どちらも1979年(昭和54年)公開の(いわゆる)角川(系)映画である。
(系)というのは『蘇える金狼』は “角川春樹事務所” による制作だが、『白昼の死角』の方は 企画・プロデュースは角川春樹氏であるものの、制作主体そのものは “東映” であるからだ。(他に『悪魔が来りて笛を吹く』『魔界転生』も同制作であるらしい)

“ピカレスクロマン”

世に定常する “正義” や “道徳” といった規範に沿わず、己が求めるままに振る舞い、目的・もしくは達成感を得ようと生きる者たちのドラマであり、一般的な人生観からは逸脱する・・否、逸脱するからこそ求められて止まないダークストーリーでありヒーローなのだろう。

現世を生きる者なら誰しも “金” を求める。それは この世を渡る上で “金” が “生きる力” を計る尺度のひとつとなっているからに他ならない。 誰も紙貨幣や証券書類そのものに愛着を感じる者はいない。(稀にいるがそれは “守銭奴” の類とされる)
皆、”金” の向こうに有る強大なパワーと、それによってもたらされる夢の生活に魅せられるのだ。

ダークヒーローたちは、それを常人とは異なる破天荒な策と 並外れた能力、そして忍耐力で追い求めてゆく。

『蘇える金狼』『白昼の死角』両映画で登場し描かれる主人公はともに、金、そして権力を手中にせんがため型破りな構想を描き、それをエネルギッシュに遂行してゆく。 常人では二の足を踏むような行為でもためらうことなく引き金を引く。

しかし、彼らに “正義” や “道徳” の意識が根底から欠落しているのか、”悪” に魅入られているのかというと、そういうわけでもない。 目的の達成のため他の全てを捨て去ることに踏み切ることができ、得られる境地が他の全てを上回ると信じきれた者のみがこの道を歩む。
そこには “正義” も “悪” も存在しないと言っていいのだろう・・。

 

されど、手にした金や権力で贅沢な暮らしや覇権を得られたとしても、それは一時的な栄華でしかない。 あまつさえ強引な手法で手に入れる栄光には、踏みにじられた者の多さゆえ常に怨嗟の呪いがつきまとう。

そして、物語の多くは “全てを手にする” 一歩手前で “全てを失う” のが定番である。

金や権力は社会における尺度であるとともに、”目に見えやすい” ものでもあるために人は惹かれやすい。そしてその向こうに有る “力と栄華” を夢見る。 しかし、本当に人が夢見ているものは、さらにその向こうに有る無形の “幸せ” であるはずだ。

金や権力、力と栄華の向こうに “幸せ” など無い と物語は訴える。

しかし、それでも人はその幻を求めて今日も彷徨い歩く・・。
それが人というものの本来の姿なのか。

 

燃え盛る札束の中で崩れ落ちてゆくがごときアンチなヒーローたち。

彼らは直情的にエネルギッシュに生きながら、その終焉はあまりにも呆気ない。
だからこその “ドラマチック” であろうし、憧れを抱かせる所以でもあるのだろう。

『蘇える金狼』では 惜しくも早逝した前野曜子氏が、荒々しくエレジーな主人公の生き様を歌い上げる。

『白昼の死角』では ダウン・タウン・ブギウギ・バンド・宇崎竜童氏による、世の無情をも描く熱唱が聞ける。

ひたむきに生きて虚しく散るヒーローたちに捧げる鎮魂歌でもあろう。

 

世の中がクリーンかつスマートになってゆくに連れて、こうした泥臭いまでのアンチヒーローも減少傾向にあるように思える。

一方で企業や政治の世界となると、表面(おもてづら)は小ぎれいに繕われ、環境だの人権だのと謳っているものの、躍進のために使う手法の多くが法の隙間を縫うものであったり、下流に位置するものへの無言の圧力であったりと、およそ その表面との乖離に閉口する。

つまるところ 人間社会、いつの時代も本質は大して変わっていないということか・・。

ならば “ドラマ” の中に登場する悲しきヒーローたちに、ささやかな共感を抱き拍手を贈ることも あながち恥ずべきことでもないだろう・・。

 

 

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