英雄というものは時代によって作られる。現在知られる “桃太郎” の姿が明治以降の国策を背景に作られたというのは、近年になってよく聞かれる話だ。
古来、様々な英雄が人々に勇気と希望を与え世の正義を謳ってきたが、その中には時代が進むに連れいつしか忘れられてしまう英雄もいる。
「岩見重太郎」など昭和の前半位までは知られた英雄であったが、現在、中高年にあっても知る人は限られる。
日本三大敵討ち、「曾我兄弟の仇討ち」や「鍵屋の辻の決闘」の話を知っている若い世代が、今どれほどいるだろうか。 さすがに「忠臣蔵」に至っては現在も著名であるものの、そもそも敵討ちを是とせず単純に正義となし得ない現代社会で、いつまで語り継がれるかは不明瞭であろう。
『一心太助』 昭和40年代までは、そこそこメジャーな話だった。
ネタに困るテレビ・映画業界にあっても現在 取り上げられることは皆無と言っていいが、30年代までは映画で、以降はテレビドラマで度々取り上げられた題材である。
テレビドラマ版では “杉良太郎”氏 主演、大久保彦左衛門役に “志村喬”氏 で演じられたものが有名だが、残念ながら私個人こちらの方はもひとつ記憶に薄い。
題名もそのもの『大久保彦左衛門』 一心太助役に “関口宏”氏、 主人公・・なのか? 大久保彦左衛門役に “進藤英太郎”氏 が演じておられた方をよく見ていた。
一心太助、一介の魚屋である太助が 江戸庶民の困り事や事件を次々と解決してゆく、言ってみれば “痛快英雄譚” といったストーリーだが、実際のところヒーローである太助だけでは寸が足らず、彼の後見であり庇護者でもある “大久保彦左衛門” の存在が、話に厚みを持たせている。
以前にも書いたがヘンコな性分故に、主人公よりも重要な脇役や相手の悪役の方が好きである。
進藤英太郎氏もその一人、どちらかというと悪役やコメディーな役まわりのイメージも強いが、それだけに大久保彦左衛門像に豊かな人間味を添えることとなった。 滋味溢れる演技力で最高のパフォーマンスを発揮する、志村喬版大久保彦左衛門も見たかったが、私の中の大久保彦左衛門は この進藤英太郎なのである。
ある時は面の皮を伸ばして大仰に驚き、またある時は慈愛を湛えながら顔をほころばせる。 「まったくお前という奴は!」と呆れ叱りながらも裏ではサポートの手を緩めず、事の責任は全て自らが背負う。
言うなれば、同じ江戸時代の剛勇 火盗改 長谷川平蔵(鬼平犯科帳)と同じく(キャラクターは異なるが)、理想の上司像といったところなのだろう。 いつの時代もこういった人材は中々に稀有である・・。
因みにこの「一心太助 / 大久保彦左衛門」決定的な要素がもう一つ有る。
一心太助は物語を書くための創作の人物だが※、大久保彦左衛門の方は実在の人物である。 つまり、元々 大久保彦左衛門の英雄譚を下地に、そのスピンオフともいうべき発展型として「一心太助」が描かれたのだ。
では、史実の大久保彦左衛門は何故に英雄とされたのか?
彦左衛門は通称、正名は大久保忠教(おおくぼただたか)、戦国時代末期、三河国に生まれ、怒涛の戦乱と変革期を生き抜いた武将のひとりであった。
戦国ドラマであまり登場しないことからも知れるように、メジャーな存在ではなく江戸時代に入ってからも 2000石取りの旗本でしかなかった。
忠教が英雄視されたのは その死後のことである。
忠教はその晩年に「三河物語」という三巻からなる書物を書き残していた。
門外不出という体裁をとっていたが、事実上 世に広めるためのものであり、早い時期から写本がとられ世間に出回っていた。
内容は、というと・・その多くが徳川(松平)家9代に渡って忠節を尽くしてきた大久保家の事績と自慢、戦国における武士のあり方と心意気、そして安定時代に入った幕府と世情に対する不満である。 要するに老人の愚痴ともとれる内容なのだ。
※ 東京都港区の立行寺、大久保彦左衛門の墓の近くに一心太助の墓が有るそうですが、一般的には創作の人物とされています。モデルとなった人がいたのかもしれません。
それでも忠教の想いは、当時 多くの人々の共感を呼び「三河物語」は重版を重ねられ、ついには忠教=大久保彦左衛門 自身が英雄視されるに至った。
それは書物に遺した愚痴の文言だけではなく、忠教本人の生き方そのものに依るところが大きいのだが・・、
さて、ここまで来て誠に申し訳ありませんが、忠教=大久保彦左衛門について もう一押しお知りになりたい方は “こちらから” ご一瞥 願いたいと思います。
少々、昭和の話題から外れつつあるし、・・まあ、要するにイナバナ.コムとのタイアップ記事と言うわけ。恐縮。
最後に一文添えるなら、人は信念と責任をもって生きるべし、されど年老いたなら若者を支えども口は程々に・・といったところかな・・。