マルハッチは日本人よりも日本人なのか

”タレント” などという職名がいつ頃から使われ始めたのかは分からない。
昭和の・・50年代後半位からなのだろうか・・?

便利なもので ”タレント” と呼び称していれば大抵の企画に適応してしまう。 芸能人であるとともにマルチプレーヤーでもあるので、歌も歌えば役者もするしコメディな一面を見せて茶の間の人気も得て、挙げ句コメンテーターなどという仕事もこなしてしまう・・。

手の届きようもない “銀幕のスター” よりも、一般人と変わらない感覚をもつひとりの人間として身近に感じやすいというのも “タレント” が増えた一因かもしれない。

結果的に専業性が薄れてしまって ”一芸を極める” ような人が少なくなってしまったが、まあこれも時代というものなのだろう・・。

 

タレントと銘打つ人は星の数ほど存在するが、それでも世の多くの人々から普遍的に愛される人は それなりに限られてくる。

愛されるための技量を持っているのか、それとも本人の本質的な面で愛されるような性分なのかは解らないが、やはり 多くの人から愛される者は、基本的に他人に対する配慮や社会に対する慎ましさをどこかに持ち合わせていることが多い。

只々 自分を前に出そうという者は、たとえ人気を得たとしても必ず一定数の反発を招きやすいものだ。

 

昭和39年3月 初の土俵を踏んだハワイ・マウイ島出身の力士「高見山」は、3年の月日を掛けて十両に昇進、史上初の外国人 “関取(入幕)” となり、以降、前頭・小結と出世して47年秋場所には ついに “関脇” へと到達した。(当時の外国人力士 最高位)

その巨体と眼光、アメリカンフットボールに培われたダンプカーの如き突進力は破壊力抜群で、初土俵時には対戦相手が何もせず逃げ出すほどであったそうな。

だが 反面、小回りが効かず技数も少なかったのと、フットボール時代に負った足腰の古傷が原因で下半身にウイークポイントを持っており、猛進をあっさりかわされ派手に転がりながら土俵外へということも少なくなかった。(口の悪いオヤジは “コロリン山” などと言っていたw)

押せば猛牛の如く、いなされれば子供の如く、明暗相分けながら勝負を積み重ねてゆく高見山、ついに “大関” を掴み取ることは叶わなかったが、それでも彼の取り組みは人気があった。 負け相撲であっても野次の嵐というよりは「あ〜っ!残念!」といった落胆の想いが観衆にも強かったように思う。

 

番付こそ “関脇” 止まりであったが、年齢や怪我のため順位を落としても相撲への情熱は衰えず20年に渡って土俵に上がり続け、幕内通算連続出場 1231回、計通算出場1654回という偉業を成し遂げ、それは現在でも角界高位を誇っている。

低迷してきたからといって安易に止めない諦めない、信じた道だからこそ前のめりに倒れるまで歩き続ける姿は、ちょっとした浮沈にも合理的に態を変えてゆく現代の企業や人のあり方と対照的と言えようか・・。

 

40歳にして関取を辞した高見山は その後も協会に残り役員を務めたが、現役時代から彼が持っていた親しみやすさ・愛嬌、そして地道に努力を積み重ねるという日本人の美徳に適うキャラクターは人々に愛され続けた。

“CM横綱” と揶揄されるほどコマーシャルに多数出演し、ドラマなどにも顔を出した。スポーツマンタレントの草分けとも言えようか。
「マルハッチ! ニバーイ!ニバーイ!」寝具メーカーのCMは子供たちにも人気だった。

タレント勃興の過度期であり、今よりもスポーツ選手や伝統的な職種のタレント化に対して厳しい目が向けられていた時代であったが、生来の陽気さ・親しみやすさが幸いしたのか高見山の振りまく愛想と踊りにもならない踊りには、苦笑こそありすれ批判はあまり起こらなかったように思える。

そこには やはり、”楽しい” だけではなく “苦しみ” をも耐え忍び乗り越えてきた彼のひたむきな姿と、端々に見える、時に日本人よりも日本人らしい意識の持ち方が共感を得ていたのだろうか。
ブラウン管の向こうでニコニコする姿の裏には壮烈な努力の裏付けがあったのだ。

 

流行り言葉ともなった「目から汗が出た」ほどキツい稽古を凌ぎ、そのことは後の「何よりも稽古・基本が大事」の下地にもなっている。

日本文化に慣れるまで15年掛かったといい、それでも踏ん張り続けた高見山であったが、その中で最も辛く悲しかったのは、郷里ハワイに居る母を亡くした時だったという。

通常、すぐに立ち戻って喪に服すところを、場所前であったことから自ら このことを内密にしてくれるよう親方に頼んだ上で十五日間立派に勤め上げた。 相撲を単なる仕事ではなく “道” の通った国技であり信念であると早くから認識していたようだ。

現役引退時に、高見山のファンでもあった昭和天皇の惜意が伝わると「もったいないです・・」と涙したという。 今どき日本人でもこういう人は稀有であろう。

何かと差別問題が叫ばれる世にあって、それこそ(当時は)外国人力士に理解・不理解渦巻いていた角界で自ら苦労しながらも、一切の差別を否定し、尚も「国際化を進める上でも、国技であることを忘れてはいけない」と発言している。

 

楽しいことは楽しいだけではない、楽しさの裏には必ずそれにつながる努力と忍耐がある。 ベビーフェイスに立派なモミアゲ、という愛嬌なキャラクターで茶の間を賑わした昭和の “お相撲さん” は、真正これらのことを体現していたのかもしれない。

まさにタレントの鑑とも言えよう。

 

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