[てきゃらけやないわ] 一語句ではない・・。 どこで区切るのかというと[てきゃら | けやないわ]と二つの語で構成される一文である。
“てきゃ”(彼、あいつ) ”ら” (前語の複数形)=「あいつら、連中」
“けやないわ”(仕方がない、ダメ、無駄 といった感じ)
つまり「あいつらに何か期待してもしようがない」というような意味・ニュアンスとなる。
社会人なりたての “若僧” や、仕事の手際の悪い者に対して使われることが多かったか。
随分と無礼な物言いだが、逆に言えば自分がこのように言われること嫌さに なるべく早く仕事を覚え、気をまわすことを覚えたようにも思う・・。
紀州弁(和歌山弁、 関西弁ではなく和歌山のみで使われた方言)だそうだ。
いつぞや記事にしたが 3〜10歳位まで名古屋に住んでいた。当然 名古屋弁に染まっていたのだろう。個人的には世に言われるほど[みゃぁみゃぁ]言っていた感覚は無いのだが(・・だがや、は言ってたな)、それでも小学5年で和歌山へ転居した頃は周りからよく笑われたものだ・・。
笑われいても当の本人(私)からすれば(オマエらかて訛っとるがね・・)といった感じで、さほど気にもしていなかったが、そこは子供の柔軟性といったところか、数週間を経た頃には環境にも馴れ、付け焼刃の和歌山弁を弄するようになっていた。
改宗型w?の悲しきかな “微妙な和歌山弁” と揶揄されながらも早50年、和歌山弁もすっかり板に付いた形となったが、またまた悲しきかな今度は周りが方言を使っていない。
いや、自分のような世代からは まだまだ聞けるのだが、40歳代前半ともなるとかなり薄い、20〜30代ともなるともう(イントネーションはともかく)ほとんど標準語に近いものに聞こえてしまう。
今どき自分のことを[ワイ(正確な発音はワイとワェの中間)]などと称する若者など殆どいないのではなかろうか・・。
方言は単にその地方独自の語だけではない、語句そのものの使い方が独特なケースもある。
和歌山県は南北にかなり長いので、紀北・南紀の2地域、もしくは 紀北・中紀・南紀の3地域に分けられ、文化風土に微妙な差異が生じる。
中紀以南の一定の地域では、人の在不在を[有無]で表現したりした。
[先生居てるか? − 今無いわ・・][まいど!旦那さん有るか?]といった按配で、初めて聞く者には意外なことこの上ない。
事程左様、方言 / 訛りといったものは他の文化から見ると奇異に映ることが少なくない、一聴、時に無頼にも聞こえ 何にも増してスマートでない、要するに “ダサい” と言われそうな要素と響きを持っている・・。
そもそも地方ごとに言葉に差異があれば機能的なコミュニケーションに障りがあろう。
・・てな感じで廃れたのかね・・、 言い換えれば時代の側面であり淘汰されてゆくのは自然の流れなのかもしれないが・・ 何ともはや時折、一抹の寂しさを感じるのである。
無頼でダサく聞こえる方言もその実は古来から使われた格式高い言葉が元であったりすることも少なくない。
その地方独特の歴史と風土の中で育まれた文化の一面とも言える方言、昔話や民話伝承は危機感を持った先人たちの苦心のおかげで幾多の作が後世へと残されており、方言についても多少の蒐集統計や研究が図られているが、こればかりは蒐集の前に(方言を)使う者が居なくなればそれで終わりである。
第一、言葉は生命を持ったものなので使われてナンボであろう。文字記録としてのみ残っていても最早 博物館のはく製の如きもので、そこには温もりも人の情も失われている。
方言は それを使う地域においては “標準語” であるので、元来使おうと意識して使うものではない。「地域性を大事にするため方言を積極的に使いましょう!」と宣伝出来るものでもないし、したところで根付くものでもない。
往古 使われていた言葉が現代では極めて難解であるように、近代方言の自然消滅への道も止めようはなく、いずれ遠からずイントネーションも含めて全国共通スマートスタンダードな日本語で統一される日が来るのだろう。
それでも やはり言葉は生き物、方言は失われても時折生み出されては消えてゆく “新語” の波に戸惑いを覚えながらも日々更新を続けてゆくのだろう。 まあけやないわ。