タクシーというものに いつ乗ったであろう・・。 記憶にあるのが下の子供が生まれた日なので もう25年ほど前になる。大袈裟に言うと四半世紀の間タクシーというものに乗っていない。 それどころか路線バスや電車にもここ長い間乗っていないことに気付く・・。
都会に生まれ育った方には違和感を禁じ得ないことかもしれないが、地方に住んでいると多かれ少なかれこんな感じだ。
昭和の後半から平成にかけてモータリゼーションの波は日本全土を洗った。
一家に一台どころか、一人に一台の勢いで普及した自家用車は、それまで市民の足であった公共交通機関離れにつながる。 結果、赤字経営となった交通会社はその運用規模や路線を縮小し、さらなる公共交通離れを招くといった悪循環に陥った・・。
そこへ、若年世代の流出が止まらない地方では ますます利用者人口が減って、助成金に頼っての赤字経営から脱却できない路線が殆どだ。
これは、タクシー会社も例外ではなく日常的なシーンでの利用が激減したことを物語っている。地方においてタクシーの利用はせいぜい夜半の飲み客の送迎か、電車で来訪した人の駅からの移動手段、後は免許返納した高齢者の一時的な利用くらいなものである。

モータリゼーションの波 とは言っても その初期段階、昭和も40年代には自家用車を持たない家も多かった。 ”お出掛け” は路線バスや電車を使ってという状況がまだまだ残っていた。 当時は行楽地も遊園地も商業施設もまだ駐車場の整備が整っていなかったこともあるかもしれない。
”お出掛け” の際は一家揃って “よそ行き” の服である。
オヤジはスーツにネクタイ、オフクロは普段使わないワンピース、子供に至っても借りてきたようなお出掛け用の服を着せられ窮屈な思いをさせられた。
今にして思えば、何で行楽地や遊園地を楽しんだり親戚の家に遊びに行くのに、スーツにネクタイだったのか理解に苦しむが、当時はそれだけ ”お出掛け” が特別のイベントであったということだろう・・。
考えてみれば、明治・大正期よりも以前(昔)にもなれば ”一週間” の概念も薄く ”休日” の日取りも人それぞれで、”家族でお出掛け” などという行事そのものが希薄であったという。
戦後、新らしい文化の隆盛とともに根付いていった ”休日を楽しむ” といった感覚にまだまだ重みがあったのだろう。
さて、汚すと叱られる “よそ行き” の服を着込んで 出掛けた先が何処だったかは憶えていない。 電車を乗り継ぎ結構遠くまで行ったような気がする。
当然、降りた先の駅の名を憶えているはずもない。その駅前で起こった出来事で、その他の大半の記憶がとばされてしまったからだろう・・。
駅前に大きなガレージのような建物があって、オヤジがそこに行って何やら二言三言・・、すると そのガレージから一台の黒塗りの車がスーッと出てきた・・。
(え? もしかしてアレに乗るの? そんな訳ないよね? そんな贅沢なことしないよね?)
期待8割、打ち消し2割 の思いが頭の中をぐるぐると駆け巡っているうちに、その車は私たちの前に横づけされた。運転手さんが笑顔で降りてくると「さあ、どうぞ」といった感じに後ろのドアを開けてくれる。(当時はまだ自動開閉ドアではなかった)
おそらく、トヨタのクラウンだったか、日産セドリックだったか ピカピカに磨かれた黒塗りの大きな車だった。
屋根の表示灯があるものの 普段乗る機会などない高級車だ。
何やらもう舞い上がってしまい、その後のことはさっぱり憶えていない・・w。
当時、既にLPG(プロパンガス)車だったのか、まだガソリン車だったのかも解らないが、オヤジはPLG車特有の車内の匂いが好きではなかった。 しかし、私はあの匂いが好きである。 おそらくはこの時の一瞬の贅沢な記憶に根ざしているのかもしれない・・。

タクシーが贅沢どころか、一台数百万円もする車が普及を果たした現代、出掛けたい時に出掛けられ 行きたい場所に気兼ねなしに行ける・・。結構な時代になったものだ・・。
しかし、その便利さと引き換えに、何やら失ってしまったものも少なくないような気がしてならない。 タクシーを除けば昭和の40年代にクラウンだのセドリックだの乗っているのは、会社の社長さんかお医者さんか何かしらの先生くらいのものだった・・。
(キャデラックとかになると、また別の方向の方々が乗っておられたw)
贅沢や便利を叶えようとするのは 人の世の常なのだろうが、それらを当たり前のように感じだしたら・・もう元には戻れないのだ・・。
そして今、車社会もまた大きな転機を迎えようとしている。
上で書いたように都会と地方では状況もそれぞれに異なるが、十年後、三十年後にはどんな交通社会になっているのだろう・・。
”慎ましさ” はおろか ”贅沢” さえも失ってしまった先に、どんな未来が待っているのだろう。
