終業の鐘が鳴る、放課後 家にランドセルを置くのもそこそこに遊びに出かける。
ひとしきり遊んで間が空くと駄菓子屋に移動、一息つくのか余計に騒ぐのか・・。
陽も傾く頃になると “そろそろ帰るわ” の奴、家に帰ってもまだ誰も居ないので “まだ遊んでるわ” の奴、そして改めて駄菓子屋に入ってゆく奴などに分かれる。
我が小学校区の駄菓子屋「マンガ堂」は、その時間帯からもう一つの顔を現した。
おそらく 他の駄菓子屋でも同じような業態を持つ店も多かったのではないか、「マンガ堂」は夕刻から子供相手の「塾」として機能していた。
先生はお爺さん(おそらく店主お婆さんの旦那さん)、教えるのは “習字” と “算盤” 、当時の塾には極めて標準的な科目であったが、時代の進行とともに より実益的でシステマティックな “進学塾” への形態へと「塾」は姿を変えてゆく・・。
私はこの塾に通わなかったが一度だけ友達に混じって、店の奥部屋に入り込んだことがあった。 畳敷き、天井からぶら下がる電球、自分の家と広さ以外そう変わらない部屋にいくつか文机が並べられ、前でお爺さん先生が教鞭をとっていた。
習字や算盤なんて何の役に立つのか当時の自分には解らなかったが、少なくとも この老齢の先生から感じた “威厳” のようなものは、学校の先生をも凌ぐ重みのようなものを放っていたように思う。
今にして思えば、江戸から明治・大正期の ”寺子屋” とはこういった感じだったのかのかもしれない。
店先で黄色い声を上げる子供たちは 婆さんに、時に笑わされ、時に励まされ、時に叱られていた。 奥の教室で爺さん先生は言葉少ないながらも子供たちを導いていた。
町や村の一角で営まれる駄菓子屋では、ひとつの家庭にも似た “子を育む” ための機能が働いていたのではないだろうか。
平成の前期、自分の子供が小学校に通う頃、既に少子化は相当に進んでいて学区内の文房具屋さえ、その経営に苦慮する有様だった。
私の知る駄菓子屋は早くに姿を消していたし、そもそも子供たちは室内で多くの時間を費やすようになっていたが、それでも時折 外で遊んでいる時に皆で立ち寄る個人の菓子屋はあったようだ。 それが今は何となく嬉しい・・。
数は激減したとはいえ駄菓子屋は今でも稀に現存しているようだ。
駄菓子を供給する製菓会社も僅かながら残っている様子。
家で新製品のスイーツも結構だが、子供には “安物の蜜” を味わいながらも社会性を育み、学校が教えてくれない大切なことを学べる「昔の駄菓子屋」のような場所が必要だと思うのだがどうだろうか・・。